2011年4月18日、福島県南相馬市小高区の沼地のガレキの下で、一人の若い女性の遺体が見つかった。当時の南相馬市では東日本大震災による行方不明者の捜索が行われており、この女性遺体も捜索活動の中で発見されたものである。
医師による検視の結果、死因は「溺死」、死亡推定時効は「3月11日午後16時頃」とする死体検案書が作成された。つまり女性は津波の犠牲者であると見做されたのである。そして遺体は翌日荼毘に付された。女性の身元が分からなかったため、身元不明遺体の情報を伝えるホームページに服装などの特徴が掲載された。
【失踪した女子高生】
時は遡って2011年2月19日の午後18時過ぎ、福島県南相馬市の高校3年生Sさん(当時18歳)は、「ちょっと出かけてくる」と言って自宅を出た。Sさんはスウェットにサンダル姿で、財布も持っていない。父親が尋ねると、交際相手の男性X(24歳)に会いに行くのだという。SさんとXは1年前の夏休みで知り合って交際を続けていた。
Sさんは「すぐ戻る」と言っていた。しかし22時を過ぎても戻らない。母親はたまらず男性Xに電話をかけた。Sさんが戻らないことを伝えると、Xは驚いた様子だった。Xの証言によれば、Sさんから「別れたい」と伝えられ、20時半頃にSさんの自宅近くで車から降ろしたのだという。
いつまで経ってもSさんは帰ってこない。両親は21日の午前中に警察に届けた。この際Sさんと最後に会った人物としてXも事情聴取を受けたが、その証言から特に不審な様子は見られなかったとされる。
既に交際をやめることが決まっていたにも関わらず、XはSさんの捜索に熱心で、Sさんの両親を自らの車に乗せて福島市の電話会社まで連れて行った。Sさんのケータイの電波情報を調べるためである。電話会社によれば、Sさんの電話は19日までは繋がっていたが、20日以降は電源が切られているとのことだった。
【重要参考人の死】
2月23日夕方、南相馬市の海岸で、一台のワゴン車から火が上がっているのが発見された。ワゴン車の持ち主はあのXである。だが、肝心のXの行方は分からなかった。
それまでSさん失踪について事件性を疑っていなかった警察も、こうなってしまっては考えを改めざるを得ない。Xの自宅周辺や関係先が直ちに捜索された。心の奥底でXの証言を疑っていたSさんの両親もX捜索に加わった。やはりSの行方を知っているのはX以外有り得ない、このまま逃してなるものか…。
2月25日になり、Sさんの父親はとうとうXを発見した。しかしそれは望んだ姿ではなかった。Xは海岸沿いの水門にひもをかけ、首を吊って死んでいたのである。足元にはウイスキーの瓶と、Sさんがつけていた日記が落ちていた。
Sさんの日記は両親がXに貸したもの。一緒に電話会社を訪れた日、帰りが遅くなってしまったためXはSさん宅に泊まることになった。そしてXは自ら希望してSさんの部屋で寝たという。翌朝Xが起きてくるとSさんの日記を手にしており、Sさんの両親に対して「貸してくれませんか」と言ってきた。両親は不審に思いつつ貸すことを了承した。
両親がXへの不審を深めたのは、Sさんを捜索する道中、ファミレスで食事を共にしたときだった。母親はXの手の甲にいくつもの引っかき傷があることに気づいた。Sさんはケンカをするときに爪でひっかく癖があった。母親が傷について「どうしたの?」と尋ねると、Xは「アトピーです」と答えた。それでも不信感を拭えない母親は「本当にSの居場所を知らないの?」と問い詰める。しかしXは「知りませんよ」と冷静に答えてファミレスから去っていったという。
Xは遺書を残さなかった。従って自殺に至った彼の心の内は分からない。一体どんな思いでSさんの日記を読んだのだろうか。Xはバスケットボールの上手いスポーツマンタイプで、優しい性格で知られていた。同級生はXについて「自殺なんてするやつじゃなかった」と語っている。
【必死の捜索の果てに】
重要参考人の自殺は福島県警にとって致命的失態であった。こうなれば何としてでも事件の真相を究明しなくてはならない。最大の”証拠”であるSさんの行方を掴むべく、大規模な捜査体制が取られた。極めて異例なことに、駐在所勤務の人間にまで捜索の指示があったという。だが、この指示は結果としてさらなる悲劇に繋がった。彼らは3月11日に島崎海浜公園で捜索を行い、津波に飲み込まれてしまったのである。
3月11日の東日本大震災、そして福島第1原発の事故があり、南相馬市の人々は次々に避難していく。それでもSさんの両親は娘の帰りを信じて自宅を離れずにいた。そしてやがて身元不明遺体の情報を掲載するホームページに行き着いた。その中でふと、一人の女性の情報が目につく。まさかこれは…。
果たして、2011年5月6日、DNA型鑑定の結果、冒頭の身元不明女性遺体がSさんであると判明した。しかし遺体は既に火葬されてしまっている。もはや何らの手掛かりも得られない。同じ医師の手で再び死体検案書が作成されたが、そこでは死亡推定時刻「推定2月中旬~3月中旬頃」、死因は「不詳」とされた。
Sさんの遺体は下着姿で見つかり、損傷が激しかったものの、刺し傷など事件性を伺わせる傷はなかったとされる。医師は震災の混乱の中で迅速な判断をしなければならない。それでも司法解剖に回すことを検討していればよかったのか。2通の死体検案書を作成した医師は自問自答を続ける。
【続く悲劇】
Sさんは行方不明のまま3月1日に高校を"卒業"した。卒業後は地元企業へ就職することが決まっていたという。少女には無限の未来が待っていたはずだ。それがあまりにも唐突かつ不可解な形で奪われた。その死の真相を知ることすら最早叶わない。
そして2016年11月、一家はさらなる悲劇に見舞われる。
【出典】
毎日新聞2011年3月4日「行方不明:福島・南相馬の女子高生が 家族が届け出、公開捜索開始」
読売新聞2011年3月4日「福島の高3女子不明」
読売新聞2011年3月4日「交際?20代男性自殺 福島の女子高生不明」
毎日新聞2011年3月5日「福島・南相馬の高3不明:20代友人男性、聴取後に自殺」
読売新聞2011年3月5日「高3女子不明 知人男性自殺 「優しい子」「早く出てきて」=福島」
毎日新聞2011年5月7日「福島・南相馬の高3不明:遺体、DNAで女子高生と確認」
読売新聞2011年5月7日「2月から不明の高3 震災捜索中 遺体発見」
毎日新聞2018年4月8日「ストーリー:震災前、行方不明になった18歳」
医師による検視の結果、死因は「溺死」、死亡推定時効は「3月11日午後16時頃」とする死体検案書が作成された。つまり女性は津波の犠牲者であると見做されたのである。そして遺体は翌日荼毘に付された。女性の身元が分からなかったため、身元不明遺体の情報を伝えるホームページに服装などの特徴が掲載された。
【失踪した女子高生】
時は遡って2011年2月19日の午後18時過ぎ、福島県南相馬市の高校3年生Sさん(当時18歳)は、「ちょっと出かけてくる」と言って自宅を出た。Sさんはスウェットにサンダル姿で、財布も持っていない。父親が尋ねると、交際相手の男性X(24歳)に会いに行くのだという。SさんとXは1年前の夏休みで知り合って交際を続けていた。
Sさんは「すぐ戻る」と言っていた。しかし22時を過ぎても戻らない。母親はたまらず男性Xに電話をかけた。Sさんが戻らないことを伝えると、Xは驚いた様子だった。Xの証言によれば、Sさんから「別れたい」と伝えられ、20時半頃にSさんの自宅近くで車から降ろしたのだという。
いつまで経ってもSさんは帰ってこない。両親は21日の午前中に警察に届けた。この際Sさんと最後に会った人物としてXも事情聴取を受けたが、その証言から特に不審な様子は見られなかったとされる。
既に交際をやめることが決まっていたにも関わらず、XはSさんの捜索に熱心で、Sさんの両親を自らの車に乗せて福島市の電話会社まで連れて行った。Sさんのケータイの電波情報を調べるためである。電話会社によれば、Sさんの電話は19日までは繋がっていたが、20日以降は電源が切られているとのことだった。
【重要参考人の死】
2月23日夕方、南相馬市の海岸で、一台のワゴン車から火が上がっているのが発見された。ワゴン車の持ち主はあのXである。だが、肝心のXの行方は分からなかった。
それまでSさん失踪について事件性を疑っていなかった警察も、こうなってしまっては考えを改めざるを得ない。Xの自宅周辺や関係先が直ちに捜索された。心の奥底でXの証言を疑っていたSさんの両親もX捜索に加わった。やはりSの行方を知っているのはX以外有り得ない、このまま逃してなるものか…。
2月25日になり、Sさんの父親はとうとうXを発見した。しかしそれは望んだ姿ではなかった。Xは海岸沿いの水門にひもをかけ、首を吊って死んでいたのである。足元にはウイスキーの瓶と、Sさんがつけていた日記が落ちていた。
Sさんの日記は両親がXに貸したもの。一緒に電話会社を訪れた日、帰りが遅くなってしまったためXはSさん宅に泊まることになった。そしてXは自ら希望してSさんの部屋で寝たという。翌朝Xが起きてくるとSさんの日記を手にしており、Sさんの両親に対して「貸してくれませんか」と言ってきた。両親は不審に思いつつ貸すことを了承した。
両親がXへの不審を深めたのは、Sさんを捜索する道中、ファミレスで食事を共にしたときだった。母親はXの手の甲にいくつもの引っかき傷があることに気づいた。Sさんはケンカをするときに爪でひっかく癖があった。母親が傷について「どうしたの?」と尋ねると、Xは「アトピーです」と答えた。それでも不信感を拭えない母親は「本当にSの居場所を知らないの?」と問い詰める。しかしXは「知りませんよ」と冷静に答えてファミレスから去っていったという。
Xは遺書を残さなかった。従って自殺に至った彼の心の内は分からない。一体どんな思いでSさんの日記を読んだのだろうか。Xはバスケットボールの上手いスポーツマンタイプで、優しい性格で知られていた。同級生はXについて「自殺なんてするやつじゃなかった」と語っている。
【必死の捜索の果てに】
重要参考人の自殺は福島県警にとって致命的失態であった。こうなれば何としてでも事件の真相を究明しなくてはならない。最大の”証拠”であるSさんの行方を掴むべく、大規模な捜査体制が取られた。極めて異例なことに、駐在所勤務の人間にまで捜索の指示があったという。だが、この指示は結果としてさらなる悲劇に繋がった。彼らは3月11日に島崎海浜公園で捜索を行い、津波に飲み込まれてしまったのである。
3月11日の東日本大震災、そして福島第1原発の事故があり、南相馬市の人々は次々に避難していく。それでもSさんの両親は娘の帰りを信じて自宅を離れずにいた。そしてやがて身元不明遺体の情報を掲載するホームページに行き着いた。その中でふと、一人の女性の情報が目につく。まさかこれは…。
果たして、2011年5月6日、DNA型鑑定の結果、冒頭の身元不明女性遺体がSさんであると判明した。しかし遺体は既に火葬されてしまっている。もはや何らの手掛かりも得られない。同じ医師の手で再び死体検案書が作成されたが、そこでは死亡推定時刻「推定2月中旬~3月中旬頃」、死因は「不詳」とされた。
Sさんの遺体は下着姿で見つかり、損傷が激しかったものの、刺し傷など事件性を伺わせる傷はなかったとされる。医師は震災の混乱の中で迅速な判断をしなければならない。それでも司法解剖に回すことを検討していればよかったのか。2通の死体検案書を作成した医師は自問自答を続ける。
【続く悲劇】
Sさんは行方不明のまま3月1日に高校を"卒業"した。卒業後は地元企業へ就職することが決まっていたという。少女には無限の未来が待っていたはずだ。それがあまりにも唐突かつ不可解な形で奪われた。その死の真相を知ることすら最早叶わない。
そして2016年11月、一家はさらなる悲劇に見舞われる。
【出典】
毎日新聞2011年3月4日「行方不明:福島・南相馬の女子高生が 家族が届け出、公開捜索開始」
読売新聞2011年3月4日「福島の高3女子不明」
読売新聞2011年3月4日「交際?20代男性自殺 福島の女子高生不明」
毎日新聞2011年3月5日「福島・南相馬の高3不明:20代友人男性、聴取後に自殺」
読売新聞2011年3月5日「高3女子不明 知人男性自殺 「優しい子」「早く出てきて」=福島」
毎日新聞2011年5月7日「福島・南相馬の高3不明:遺体、DNAで女子高生と確認」
読売新聞2011年5月7日「2月から不明の高3 震災捜索中 遺体発見」
毎日新聞2018年4月8日「ストーリー:震災前、行方不明になった18歳」