1972年に百貨店「三越」の社長に就任した岡田茂は、独裁的経営体制を築き上げ、愛人の竹久みちと共に会社を私物化した。だが、1982年にとある週刊誌がその実態を報じると、次々と"闇"が暴かれていった。

 三越の一連の"闇"の中に「ニセ秘宝事件」がある。これは、1982年8月に東京日本橋の三越で開かれた「古代ペルシャ秘宝展」に出品された47点の大半が偽物で、その偽物の中には2億円の値で売られたものもあったという前代未聞のスキャンダルであった。結局、この事件が岡田の独裁政権にトドメを刺すこととなる。

 ところで、それらニセ秘宝の出所に関して、ルートは複数確認されたのだが、その一つとして東京池袋にある古美術店「無尽蔵」が注目された。しかし、疑惑の店主Nは既に連絡がつかなくなっており、捜査を進めるうち、なんと無尽蔵の従業員XがNを殺害していたことを自供する。

 Xの自供によれば、公私のトラブルから1982年2月に店主Nを撲殺したのだという。だが、Xが遺体を捨てたとする運河からNの遺体は発見できなかった。結局Nの遺体が見つからないままXは殺人罪で起訴されるものの、公判ではNの死亡日とされる82年2月24日以降にNと会ったと証言する者が5名も現れるなど、事件は混迷を極めていく…。

【容疑者Xについて】
 容疑者Xは1952年生まれ。「無尽蔵」の店主Nとは大学時代にアルバイトをしていた歌舞伎町のゲイバーで知り合いになり、やがてNから「自分の店で働かないか」と誘われて無尽蔵の店員となった。無尽蔵はNとXの2人だけの店であり、Xは店員としての給料約30万円だけでなく、独身のNの求めに応じて男色関係を結んで毎月50万~100万円もの小遣いをもらっていた。

 だが、Xは根っからのホモではなく、あくまで小遣い稼ぎでやっているだけであった。既に離婚していたとはいえ妻子もあったし、ホステスの愛人もいた。Nの求めはますます激しくなっていくが、Xはそれに応えきれず、次第に関係を拒絶するようになる。すると、Nは"小遣い"を与えなくなり、「店を畳もうか」などと洩らしだした。

 "小遣い"を突然失ったXは、妻子への仕送りに苦労するようになった。それどころか逆に妻から金を送ってもらったり、愛人からも借金をした。このままではまずい。継ぐつもりでいた店もパーになるかもしれない。Xは精神的に追い詰められていく。

【N失踪】
 店主Nは1982年2月28日から突然連絡がつかなくなった。N宅の電気・水道・ガスの使用状況や、郵便受けに溜まった新聞からして、2月下旬以降Nが帰宅していないことはまず間違いない。そして、冷蔵庫に残された多くの食料品、干しっぱなしの洗濯物は、自発的失踪ではなく予期せぬ異変があったことを伺わせた。

 Xとのいざこざはあったかもしれないが、無尽蔵の売上はすこぶる順調で、経済的問題があったということもありえない。実際、2月下旬以降にいくつかの取引を予定していたのだが、やはりNは姿を現すことなく取引は無断破棄となってしまった。

 Xは4月1日にNの捜索願を出している。Xは「店長は仕事が嫌になり、外国へ行きたいと話していた」と証言した。しかし海外渡航の形跡はなく、預金の出し入れも確認されなかった。

【遺体無き殺人事件】
 やがて上記ニセ秘宝事件で無尽蔵ルートが注目されるに至り、9月下旬以降、Xの事情聴取と家宅捜索が開始される。そこで店のワゴン車を調べたところ、荷物を積む部分から血液反応がみられた…というわけだ。Xはまず横領罪により別件逮捕され、Nの失踪に関しては当初関与を否定したものの、数日後に"殺害"を自供した。

 曰く、1982年2月24日午後19時40分頃、無尽蔵の店内において、鉄製のボルトでNの後頭部を何度も殴りつけて殺害した。遺体は絨毯で包み、店の中に隠していたが、腐敗臭が酷くなったため、3月7日に重しをつけて川崎市の京浜運河に捨てた、という。だが、殺人が行われたことを示す唯一の証拠であるNの遺体は、潜水隊員による連日の捜査でも発見されなかった。

 結局、遺体は見つからないまま、Xの自供とその他状況証拠を根拠として、Xは殺人罪で起訴されるに至った。正しく遺体無き殺人事件である。また、店主Nを殺害したとされる日以降に、Nの印鑑を持ち出し、Nの名前で署名をし、店の売上金1200万円を勝手に引き出した件について、有印文書偽造や詐欺罪等でも起訴されている。

【公判】
 捜査段階では詳細な自白をしたXだが、第一回公判において突如自白を撤回して全面否認に転じる。そして、上記のとおりNは2月下旬以降に予定していた取引に姿を見せなかったわけであるが、弁護側はNが殺害されたとする2月24日以降にNが生きていたと証言する複数の人間を召喚した。

 証人Aは、2月ごろにNが失踪したというウワサが流れ出して1週間から10日以上経過してから、Nと思われる人物から二度電話を受けたと言う。証人Bは、5月27日の朝8時半~45分頃、無尽蔵の前を通りがかると店のシャッターが開いており、覗き込んでみると店の奥の方でNが俯きながら座っていたと言う。証人Cは、6月2日に伊東市内の旅館で開催された骨董市にて、白い服を着たNを見かけ、「景気はどうよ」などと会話をしたと言う。

 また、無尽蔵の常連客であった証人Dは、2月25日の夕方に友人とともに無尽蔵を訪れると店にはNとXがおり、買掛金35万円を支払いつつ40分ほど話をして帰ったと言う。やはり、同店の常連客であった証人Eは、2月26日昼前に勤務先から無尽蔵に電話をかけるとNが電話口に出て、Eが「今日の夕方行きたい」と言うと、Nは「分かった」と答えたのだと言う。しかし、実際にEが妻や知人と共に指定の時刻に店を訪れてみると閉店していてN本人とは会えずじまいということだった。

 したがって、Nが死亡したのかは未だ定かでなく、仮にNが死亡していたとしても、いつ、どこで死亡したのか、Xがそれにどのように関与したのか十分立証されていない、という理屈でXは殺人罪について無罪を主張した。加えて、印鑑を使い、勝手にNの名で署名をして売上金1200万円を引き出したことは事実と認めつつも、それは失踪中のNに代わって無尽蔵を経営するために行ったものであって、詐欺罪等にはあたらないして、こちらもやはり無罪を主張した。

【一審判決】
 1985年3月13日、東京地裁判決。懲役13年(求刑15年)の有罪判決。

【五人の証言の不確かさ】
 上記5人によるN生存証言は全て否定された。結局のところ、いずれの証言も曖昧、いい加減なものであって、証拠として採用するに足るものではなかったのである。

 Nが音信不通となったのは2月下旬で、周囲に失踪したとのウワサが流れ出したたのは3月以降のこと。その中で「2月ごろにNが失踪したというウワサが流れ出して1週間から10日以上経過してから電話を受けた」というAの証言は時期の不確かさという問題がある。また、電話の内容に関して、一度目の電話の相手はろれつが回っておらず何を言ってるかよく分からないうちに切れたという。二度目の電話にしても、相手は「Sさんはいるか」とただ一言発しただけで、「自分はNだ」と名乗ることもなくすぐに切れてしまっている。この程度の曖昧な内容をもってN生存の証拠と見做すのは難しい。

 5月27日の朝8時半~45分頃に無尽蔵の店舗で見かけたとBは証言するが、無尽蔵の普段の開店時刻は10時半過ぎであり、時刻が不自然という問題がある。しかも無尽蔵の店舗にシャッターは取り付けられておらず、この点は証言と決定的にムジュンする。音信不通になってしばらく経つNが5月のある一日だけ姿を現すというのもなかなか理解し難い話で、被告Xや他の常連客はこの頃にNを見たという証言を一切していない。そうなるとBの証言もまた疑わしいものであった。

 Cの証言は一見具体的に思える。だが、Cのいう骨董市は会員のみの招待制で、Nは会員ではなかったのだから、会場に紛れ込むというのは不思議な話である。しかも、Nが音信不通になったことは当時業界に広く知られ注目の人物となっていたところ、骨董市に参加した他の25名で当日Nを見かけたと証言するものは皆無であった。一方で、1981年に開催された骨董市で白い着物を着たNを見かけたと証言する者がおり、Cはこの時の記憶と混同している可能性が濃厚といえた。

 Dの証言もハッキリしていない。捜査段階では「あの日にNが店に居たのかハッキリ覚えていない」と何度も語っていることが記録されているのに、公判では「あの日居たのは間違いない」と変遷していた。Dの同行者は、時期はハッキリ覚えていないとしつつも、Dと一緒に店を訪れた際に「Nが海外旅行に行っているという話を聞いて、それならば35万円を早く払ってあげればよかったな」という趣旨のことを思ったと証言する。そうであれば、Dが35万円を払った日にNは不在だったと考える方が自然である。弁護側は、Dの35万円の支払いに対しては領収書が発行されており、XはNが不在のときは領収書を発行せずX自身の名刺に金額を書いて領収書代わりに渡していたのだから、領収書が発行されたということはNが店に居たことを示す証拠だと反論する。しかし無尽蔵では以前から領収書を発行しないことも少なくなく、弁護側が主張するような運用は根拠が薄いものであった。

 Eの証言は、2月26日昼にNに電話をして、同日夕方に行くと店は閉まっていた、というものである。しかし、電話をした日時について捜査段階では「当日かその前日か」と述べていた。Eに同行していた友人は、店が閉まっていた際にEが「4~5日前に電話をしていたのにおかしいなぁ」と話すのを聞いている。その友人は初めて無尽蔵に連れて行ってもらう日ということで鮮明に記憶しており、その証言は捜査段階から一貫していた。また、EはNからの収賄容疑で書類送検された身で、その際の取調べの様子から証言を必ずしも言葉通りに信用できないとされた。その他各人の証言を踏まえると、Eが電話をしたのは2月26日の数日前という可能性が高く、E証言をもってNの2月26日生存説を採るのは困難であった。

【その他状況証拠の評価】
 無尽蔵店内の床、ショーケース、机、床、じゅうたんなどから、致死量といえるくらい大量の血痕が確認された。しかもその血痕はNと同じB型であって、被告XはA型であった。これについてXはNがグラインダーや電鋸で指をケガしたことがあったと証言するも、それはごく軽傷であって、残された大量の血痕と関係しない。しかも血痕は店内のある地点に集中しており、それは正しく2月24日の夜に鉄製のボルトでNの後頭部で何度も殴りつけたというXの証言と一致し得る。Xは2月下旬の頃にNより遅く出勤したり、早く退勤したことはないと自ら証言している。そのような中で第三者が店舗に侵入してNを襲撃するなどあり得ず、しかもXに気付かれないうちにじゅうたんを入れ替えるなどの工作を行えるはずがない。もしもそのようなことがあったとしたら、Xがその異変を誰にも知らせること無く平常通り無尽蔵の営業を続けているのは不自然極まる話だ。

 2月下旬以降、売上金1200万円の引き出しの件も含め、Xは突然多額の出費を行うようになり、同業者に対しても「店主はもう帰ってこない」、「アメリカで殺されているんじゃないか」と不審な説明をしていた。これらはNがもう帰らぬ人なったことを知っていたとしか思えぬ言動である。捜索願を4月1日になってから出したことも、事件の発覚をおそれて届出を遅らせたと考えるべきである。

 Xによる自白の内容も、詳細で具体的かつ迫真性がある。いくつか変遷している点はあるものの、大筋でムジュンはなく、自白を強要されたとは伺えない。例えば、京浜運河からNの遺体が発見されていないことについて、京浜運河の潮流の複雑さや、水深、多くの船舶が通過していること、京浜運河に身を投げて自殺した者がはるか遠方まで流されて発見された実例が複数あることを踏まえれば、Nの遺体も東京湾あたりまで流されている可能性は十分にある。したがって、京浜運河で遺体が発見されていないことをもって、Xによる遺体遺棄に関する自白内容に疑問が生ずるということはない。

【結論】
 長年の恩人であるNを一方的に撲殺するなど残忍極まりなく、更に売上金を勝手に引き出したり、Nの母親の位牌を納めていた厨子なども含め様々な品を売り払い、そうして得た現金を愛人との旅行で浪費するなど、犯行後の情状の悪さも格別と判決は述べる。動機についても、Nから肉体的関係を求められて不愉快に思いつつも、多額の小遣いを与えられて長年贅沢三昧していたのも事実であり、そのような状況で突然関係を拒めばNも小遣いを与えなくなり、店を継がせようとしなくなるのも不思議なことではなく、いわばXの自業自得と言える面もなくはないと指摘した。

 一方で、本事件はNによる心無い発言にXが逆上した偶発的な犯行であり、Xには道交法違反以外の前科前歴は無いといったことも総合的に考慮し、懲役13年と結論したものである。

【二審判決】
 1987年5月19日、東京高裁判決。一審判決を支持して控訴棄却。5人による証言を含む各証拠に再度検討が加えられたものの、一審と認定がひっくり返るようなことは無かった

【最高裁判決】
 1990年6月21日、最高裁判決。上告を棄却して懲役13年が確定。

【総評】
 遺体無き殺人事件、しかも死んだはずの被害者を目撃した人物が5人も現れた、ということでインターネット上ではセンセーショナルに取り上げられることも多い本事件であるが、判決文をよくよく読んでみるとこの5人の証言というのが非常に"危うい"ことが分かる。いくら「疑わしきは被告人の利益に」が原則とはいっても、5人は弁護側の召喚した証人なのだから、もっと"確かな"証言を準備しなければならなかった。

 無論、5人の証言が崩されたことだけをもってXは有罪判決を受けたわけではない。店舗に残された血痕、売上金の引き出しなどの各種状況証拠は自白と決して矛盾せず、それについて弁護側の反論も説得力のあるものではなかった。流石にこれでは無罪を勝ち取るのは困難であろう。

 "遺体無き殺人事件"は21世紀以降もしばしば発生しているところであるが、いずれの事件も検察側が万難を排して起訴まで持ち込んでいるだけに、弁護側に求められる反証のハードルもますます高くなっているという印象だ。その点、本事件もまた有力なケーススタディの一つといえよう。

【判決文】
 東京地裁昭和58年3月13日(刑わ)第3804号
 東京高裁昭和60年5月19日(う)第817号

【出典】 
 読売新聞1982年9月27日「失跡古美術商、殺人で捜査 ニセ秘宝展のカギ握る」
 朝日新聞1982年12月5日「「無尽蔵」店員を逮捕 ニセ秘宝の骨とう店店主失跡の事情追求 不審な言動浮かぶ」
 朝日新聞1982年12月6日「横領金でニセ物つかむ 店主の死を確信?商売 店員」
 朝日新聞1982年12月9日「「店主殺された」 逮捕の店員ほのめかす 凶行追求には沈黙」
 読売新聞1982年12月13日「「無尽蔵」店主 殺して京浜運河に捨てた 横領のXが自供 使い込みがばれて」
 朝日新聞1982年12月13日「「店主殺し捨てた」 無尽蔵の店員自供 運河捜索、発見できず」
 朝日新聞1982年12月16日「「異常な関係迫られ…」 店員、動機を自供_「無尽蔵」店主、店員が殺害」
 読売新聞1982年12月17日「"異常関係"迫られて…「無尽蔵」の店主殺し X、動機を供述」
 朝日新聞1982年12月24日「まず詐欺罪、従業員を起訴_「無尽蔵」店主殺し_殺人」
 朝日新聞1983年1月31日「遺体は未発見のまま 再逮捕へ_殺人」
 朝日新聞1983年3月1日「死体ないまま殺人で追起訴 古美術店殺しの容疑者_殺人」
 毎日新聞1983年4月28日「"無尽蔵店主殺し"Xが初公判で全面否認」
 読売新聞1983年4月28日「無尽蔵初公判 「X」殺害を否認」
 読売新聞1983年10月13日「「無尽蔵」店主失跡 「"殺害"2日後に電話で話した」 国立博物館館長が証言」
 毎日新聞1983年11月10日「無尽蔵店主は"殺害"翌日「生きていた」と顧客が新証言」
 読売新聞1983年11月10日「殺されたはずの古美術店主に 「事件の翌日会った」 東京地裁で弁護側証人」
 読売新聞1983年11月11日「4か月後に会話した 無尽蔵事件 「伊東で」同業者証言/東京地裁」
 毎日新聞1984年9月4日「「無尽蔵」殺人で自白調書などを証拠採用」
 毎日新聞1984年12月5日「無尽蔵事件の初公判ー「自白」信用性めぐり、取り調べテープ公開」
 読売新聞1984年3月13日「無尽蔵店主に"死後"会った 法廷でまた証言/東京地裁」
 朝日新聞1984年12月17日「古美術商"殺人"の被告に15年求刑」
 朝日新聞1985年3月14日「「遺体なき殺人」に有罪 「無尽蔵」事件の被告に13年 東京地裁」
 毎日新聞1986年6月26日「無尽蔵事件で弁護側「事実無根」と無罪主張」
 朝日新聞1987年5月20日「「無尽蔵」殺人事件の被告、2審も有罪」
 毎日新聞1987年5月20日「古美術商店主殺しで東京高裁が死体未発見でも殺人認定と判決」
 朝日新聞1990年6月22日「東京・池袋の遺体なき殺人、有罪確定」
 毎日新聞1990年6月22日「「無尽蔵」店主失跡事件で被告の実刑確定ーー最高裁が上告棄却」