1949年7月、日本国有鉄道(いわゆる国鉄)総裁の下山 貞則が出勤途中に突如失踪した後、貨物列車により轢断された死体となって発見された。
仕事のストレスとプレッシャーから自殺したとされる一方で、何者かにより殺害された後に自殺に見せかけるために線路に放置されたとする他殺説も強く指摘され、最終的に警察は自殺とも他殺とも結論づけぬまま捜査を終了してしまう。
下山事件から約1ヶ月の間に発生した三鷹事件、松川事件を合わせて「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれている。
【下山の略歴】
下山 貞則(しもやま さだのり)は1901年7月23日生まれ。出身は兵庫県だが、司法官である父親の都合で少年時代は転校が多く、転校する度にその都市の駅の時刻表を暗記していたという。北海道から鹿児島までの駅名を暗唱して「鉄道」というあだ名をつけられたこともあった。
1925年に東京帝国大学工学部を卒業して鉄道省に入省。順調に出世していき、第二次大戦も乗り越えて、1946年3月から東京鉄道局長を務める。1948年4月には運輸次官に就任。そして1949年6月1日に国鉄が発足すると初代総裁に就任した。この時、47歳であった。
【まずは首切りから】
一見順当な人事に思える下山の総裁就任だが、実は多くの候補がその座を拒絶した後、止む無く就任を引き受けたという経緯がある。
戦後の「国有鉄道」は復員兵や海外引揚者を多く雇用したため財政が極度に悪化していた。インフレの影響もあり、労働争議も頻繁に起こった。そこでGHQ総司令官のマッカーサーは、国家公務員の争議を禁止する一方で、国有鉄道を含むいくつかの国営事業を行う職員を準公務員扱いにし、一定の労働権を認めた上でより効率的な事業経営を目指させた。こうして新たに政府出資の新法人として「日本国有鉄道」が発足することが決まる。
しかし1949年になると、中国では国内共戦における中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも共産党勢力と親米派の対立が深まった。そこでGHQ(というかアメリカ)はいわゆる「逆コース」により日本を「反共の砦」と位置づけることとし、訪日したデトロイト銀行頭取のジョゼフ・ドッジが提案した緊縮財政策「ドッジ・ライン」を実行することで日本経済の立て直しを急いだ。
ドッジ・ラインに基づく政策の一つが1949年5月に成立した「行政機関職員定員法」である。これは国鉄や専売公社などの準公務員約128万名のうち約28万名、地方自治体職員約117万名のうち約13万名を「整理」するというもので、特に国鉄は職員約62万名のうち約10万名を整理するという強烈なものであった。
こうして国鉄初代総裁の仕事は首切りから始まることとなった。しかも1月の衆議院総選挙では日本共産党が議席を大幅に増やしており、その勢いに乗って国鉄労組も首切りに徹底抗戦の構えを見せていた。そうなれば誰も国鉄総裁職など引き受けたがるはずがない。そして近鉄社長の村上義一や、元阪急電鉄社長の小林一三らが拒絶した末、下山が初代総裁に就くことが決まったのである。下山は運輸次官を辞して1950年の参議院選挙に立候補することを考えていたところだったという。
【国鉄発足】
1949年6月1日に国鉄が発足。早速、下山は労組との団体交渉に忙殺されることとなる。しかし当然ながら没交渉。すると各地にストが飛び火していき、6月10日には神奈川で「人民電車事件」が発生する。これは人民電車とペンキで大きく書かれた車両を職員が勝手に走行させ、しかも乗客を無賃乗車させたというものである。電車の窓からは赤旗が靡いていたとされる。関わった職員は後に電車往来危険罪等で起訴された。
進まぬ首切りに対してGHQから下山へのプレッシャーは強まっていく。そうして事件前日の7月4日、遂に第一次整理通告として3万700人の名簿が発表される。通告は夕方終業間際に行う予定だったが、既に名簿が労組側に漏れているらしいとの情報もあり、早めて午後15時過ぎに行うこととなった。
下山の身に危険が及ぶことも考えられ、側近は外出することを薦めたが、下山は「逃げ回りたくなどない」として断固拒否する。そこで側近は「政府関係者へ報告に行ったらどうか」と説得して、下山はようやく応じた。そうして下山は首相官邸や警視庁などに出向いたのだが、伝えられる情報によれば、下山が関係各所でとった言動はほとんど奇行であった。鬱病なども感じさせる。最終的には20時過ぎに国鉄本社に戻り、社内会議にすこし顔を出した後、22時前に自宅へ帰った。
【首切り発表翌日の朝】
失踪当日の7月5日の行動も前日の奇行に続いて謎が多い。午前7時過ぎに起床した下山は、8時15分頃に大西政雄の運転する黒のビュイックに乗って大田区池上町の自宅を出発。9時から国鉄本社で局長会議が開かれることになっており、秘書の大塚はいつものように8時45分頃から本社玄関前に立って待っていた。しかし下山は大西に次々と行き先を指示して一向に本社へ向かおうとしなかったのである。
まず下山は御成門付近で「佐藤さんのところへ寄るのだった」と言い出した。佐藤さんとは当時自民党政調会長の佐藤栄作(後の首相)のことで、佐藤は鉄道省出身であり下山の先輩にあたる。佐藤は芝三田小山町に住んでおり、御成門のあたりからはそう離れていない。しかし大西が「引き返しましょうか」と尋ねると、下山は「いや、よろしい」と答えた。
次に和田倉門ロータリー(東京駅前ロータリー)のあたりに来たところで「買い物をしたいから」銀座三越へ向かうように指示がある。時刻は既に8時45分頃になっていたが、下山は「役所は10時までに行けばいいんだ」などと呟いていたという。
大西は銀座三越を目指す。そして呉服橋ガード(東京駅北側ガード)をくぐろうとするとすると、下山は「日本橋白木屋でもよいから真っ直ぐに行ってくれ」と頼んだ。三越に向かう場合は外濠通りで左折すべきだが、この下山の指示により大西は左折せずに真っ直ぐ白木屋へ向かった。
8時48分頃、車は白木屋に着く。しかし白木屋はまだ開いていなかった。それを聞いた下山は「うん」とだけ答えた。大西は再び銀座三越へ向かうことにした。だが、三越も開店前。開店は9時半からだった。下山はまたしても「うん」と言ったきりで、次に大西が「役所にまいりますか?」と聞くと、それにも「うん」とだけ答えた。
まだまだ迷走は続く。車が常磐橋ガードまで来たところで、下山は突然「神田駅に行ってくれ」と言い出したのである。だが、車は神田駅西口に着いたが、下山は降りようともしない。今度こそ役所に向かうかと大西は考えたが、車が呉服橋まで来たところで下山は「三菱銀行(千代田銀行)」へ向かうように言った。丸の内にある銀行本店へ向かうには国鉄本社前を通り過ぎることになるが、その時に下山は「もっと早く走れないか」と怒ったとされる。
9時5分頃に千代田銀行本店着。下山は一人で銀行へ入り、20分ほどして戻ってきた。下山は総裁になってから私金庫を利用しており、その金庫の鍵を貰って地下へ行ったようである。なお、前日7月4日にも千代田銀行を訪れていたのだが、この2日間にいくらの金を出入りさせたのかはよく分かっていない。
やがて戻ってきた下山は「これから行けば丁度いいだろう」と言った。三越の開店時刻の事かと思った大西は再び三越へ向かう。そして三越が開店していることを確認すると、下山は「5分で済むからな」と言い残して店内へ消えていった。9時37分頃のことである。ここで下山は消息を絶つ。
【失踪】
なかなか出社しない総裁に対して国鉄本社の緊張は高まった。自宅に電話すれば「もう家を出た」と言うし、GHQなど関係役所に尋ねても「来ていない」と言う。とうとう昼過ぎには警察に通報し、下山を乗せたビュイックの捜索が開始された。
他方で大西運転手はなかなか戻らない下山のことを気にしていなかった。というのも、百貨店での買い物で数時間待たされることなどしょっちゅうあったからだ。しかし17時過ぎのラジオニュースで下山失踪の一報が流れると事の重大さに気づき、慌てて三越店内に飛び込んで下山を探し始めた。国鉄本社にも状況を報告した。
警察により大西の取り調べと三越店員の聞き込みが開始された。下山らしき人物を目撃した店員は何名かいた。特に地下鉄に向かったという証言は重要視された。三越店内は地下鉄に直結しており、それに乗って何処かへ向かったのではないかということだ。下山は朝の車中で「日本橋白木屋でもよい」と言っていたが、白木屋もまた地下鉄駅に直結しており、何かしらの関連があったのではないかと推理できる。
【轢死体】
警察は下山の行方を掴むことが出来なかったが、日付が変わった7月6日0時過ぎに下山は衝撃的な姿を現す。常磐線北千住ー綾瀬駅間の線路で轢死体となって発見されるのである。
最初に死体に気づいた列車の運転手はその白い肌から女性のそれだと思ったらしい。しかし運転手の通報により駅員が現場に駆けつけると、そこには下山の名刺が散らばっており、駅員は直ちに事態を察した。
下山の体は5つに轢断されていた。轢いたのは6日0時19分頃に現場を通過した869号貨物列車であると特定。同貨物列車は出発が遅れており、遅れを取り戻すためにスピードを上げて轢断現場を通過していたという。
【捜査】
一見、仕事のストレスから自殺に至ったようにも思えるが、下山の遺体の状況を巡って「生体轢断」か「死後轢断」かで法医学界の意見は真っ二つに分かれてしまう。生体轢断であれば自殺の可能性が強まり、死後轢断であれば他殺の可能性が強まる。
司法解剖を指揮した東大法医学部教室の古畑 種基(ふるはた たねもと)は死後轢断と認定した。遺体の轢断傷に生活反応が見られないことが根拠であるとする。また、遺体の損傷が激しく死因は認定できないものの、遺体や現場にほとんど血液が確認されなかったことから失血死、あるいは股間などに内出血が認められたことから股間を蹴るなどの暴行が加えられた可能性を指摘した。
一方で、現場で遺体を検分した東京都監察医務院の八十島 信之助(やそしま しんのすけ)は生体轢断と認定し、「自殺」と断定する。遺体に生活反応が見られなかったのは事実で、また死斑も確認されなかったが、多くの轢死体(自殺だけでなく事故も含む)を検分した経験からそのような例は珍しくないと主張した。血液反応が少なかったことについても、遺体発見当時の現場には大雨が降っており、その雨によって血液が流されたことで説明がつくとした。八十島に同行していた警視庁捜査一課も自殺説を推した。
このような事態に対して、1949年8月30日の衆議員法務委員会に、古畑と、死後轢断に疑問を呈す慶応義塾大の中館 久平、同じく生体轢断説をとる元・名古屋大の小宮喬介が参考人招致される。その場で古畑は「解剖を執刀した桑島 直樹講師は他殺とも自殺とも言っていない。死後轢断という所見を述べただけで、研究は継続中だ」などと述べた。
古畑は権威ある法医学者として多くの昭和の事件に関わったが、財田川事件や免田事件などで重大な鑑定ミスを犯してもいる。本事件についても果たしてその所見は正しかったのかと疑問を抱いてしまうのもやむを得まい。
【結末】
下山事件捜査特別本部は事件について何らの公式発表も無いまま、1949年12月に早くも解散してしまった。これにて捜査は終了。翌1950年1月、文藝春秋誌と改造誌に下山国鉄総裁事件捜査報告(いわゆる下山白書)が掲載されたが、これは結論を出せないまま解散してしまった捜査本部からのリークだったと考えて間違いないだろう。報告はやはり自殺で結論付けられていた。
なお、知能犯を扱う捜査二課や東京地検は他殺説を推し、捜査一課とは別に事件を追っていたのだが、こちらも責任者の転属などがあり自然消滅していった。
【推理】
結論無きまま公式な捜査は終了してしまったが、その後も多くの人物が事件の真相を追った。最も有名なものは松本清張が1960年に連載した「日本の黒い霧」であろう。下山事件は日本の黒い霧の第1話として取り上げられ、最も力を入れて書かれた。
清張の最終的な結論はGHQによる謀殺説であり、「黒い霧」第2話以降もGHQ(あるいはアメリカ軍)の関与という筋で戦後の重大な事件を検証していった。下山事件へのGHQ(あるいはアメリカ軍)の関与は事件直後より指摘する者もあったものの、本作のヒットにより大々的に議論されるようになっていく。
朝日新聞の矢田喜美雄は、遺体や遺留品の鑑定を進めるうちに、下山のワイシャツやズボン、下着にまで大量の油(いわゆる下山油)が付着していることに気づいた。油の成分分析では95%以上がヌカ油という結果で、当時の機関車は鉱物油を使用していたのでそこには矛盾が生じる。またジャケットや革靴には油は付着していなかった。さらには日本で初ともいわれるルミノール検査まで実施し、下山の血液は轢断地点から列車の進行方向とは逆の方向へ続いており、さらにその先にある無人のロープ小屋でも反応があったと主張した。
矢田は1973年に「謀殺下山事件」を発表。タイトルのとおりなのだが、矢田は轢断現場地点で下山らしき人物を目撃したとする人々への取材を続けるうちに、アメリカ軍機関に命じれられて下山の遺体を現場へ運んだとする男に出会い、その証言の信憑性からやはり本事件にはアメリカ軍の関与があったと結論づけるものである。
下記松川事件の犯人として逮捕・起訴され、14年もの法廷闘争の末に1963年に無罪判決を勝ち取った佐藤 一は、判決確定後に清張や共産党に請われる形で「下山事件研究会」に加わり、事務局長の立場で事件の真相を追った。
佐藤は初めGHQや日本政府による謀殺説を取っていたが、調査を進めるうちに自殺説を確信するに至る。他殺説をとる研究会とは袂を分かち、共産党からも除名されつつ、佐藤は1976年に「下山事件全研究」を発表。そこでは各種証拠や矢田らの主張に対して丁寧な検証を加え、最終的には鬱病による発作的な自殺と結論づけた。同時に、GHQや日本政府は自殺という事実を敢えて隠しておくことで、マスコミ主導による「事件は共産主義者によるテロ行為」という認識を世間に植え付けさせることに利用したと指摘した。
佐藤は下山事件だけでなく他の冤罪が指摘される事件の研究を続け、島田事件や狭山事件に関しても重要な著作を残した。2006年には「松本清張の陰謀 『日本の黒い霧』に仕組まれたもの」を発表し、下山事件だけに限らず日本の黒い霧全編について感情的な批判を加えている。2009年死去。享年87。
【国鉄三大ミステリーとその背景】
国鉄では下山事件発生からおよそ1ヶ月のうちに更に2つの重大事件が発生した。下山事件とそれら2事件はいずれも真相が謎に包まれているということで「国鉄三大ミステリー」と通称される。
三鷹事件(1949年7月15日)
無人の電車が暴走して三鷹駅の車止めを突き破って脱線。線路脇の商店街で6名の市民が亡くなる。
共産系の国鉄職員複数名が逮捕されるも、運転士の竹内景助が自分単独の犯行であると主張。
竹内は一審無期懲役判決も二審は死刑判決。最高裁では8対7の票差で死刑確定。1967年に45歳で病死。
竹内のアリバイや犯行内容などについて不審な点が多数指摘されている。
竹内の長男は父親の無罪を信じて21世紀になってからも再審請求を続けている。
松川事件(1949年8月17日)
福島県を走行中だった列車が突如脱線転覆。機関士など乗員3名が亡くなった。
線路継ぎ目のボルトやナットが緩められていることが判明して国鉄職員ら計20名を逮捕。
一審では何名かに死刑判決が出るも、最終的に差し戻し高裁審で全員の無罪が確定。
被告らのアリバイを証明するメモ書きの存在を検察側が隠していたなど不審な点が多数ある。
他に1948年4月の庭坂事件、1949年5月の予讃線事件、1951年まりも号脱線事件もよく知られている。いずれも犯人不明の未解決事件である。
事件は何の目的で起こされたのだろう。自殺の可能性を残す下山事件を含め、いずれの事件も国鉄の労働争議が深く関係しているのは間違いあるまい。三鷹事件が発生したのは国鉄労組が闘争宣言を発した日であり、松川事件が発生したのは東芝松川工場が解雇反対のストに入った正にその日なのだから。
しかし各事件は、反共の立場から見れば共産主義者によるテロであり、共産主義者の立場から見れば反共主義者によるでっち上げということになり、その論争に決着がつくことはない。さらに国鉄内だけでなく日本政府やGHQ等の関与まで考慮し始めたらもう手には負えない。全ての真相は闇の中と言う他ない。
事件の真相はともかくとして、7月4日の第一次整理通告に続き、三鷹事件直前の7月13日には約6万3000人を対象とする第二次整理通告が行われ、「首切り」は粛々と進められた。マスコミが各種重大事件を「共産主義者によるテロ」と結びつけて報道したことで労働者側の勢いが完全に削がれたことも効いた。
ここに挙げた以外にも列車妨害事件は多発していたのだが、1949年5月に約250件、6月に約500件、7月には約1500件と増えていったところで、首切り完了後は急速に件数が減っていく。さらに1950年11月には国鉄でもレッドパージが行われ、461人もの職員が追放された。かくして戦いを制したのは「反共」だった。
【後継総裁とスワローズ】
下山の死後、副総裁だった加賀山 之雄(かがやま ゆきお)が総裁代行に就任する。そして三鷹事件と松川事件が起こった後の9月24日に正式に総裁に就任した。加賀山は野球好きであり、そこから労使対立解消策の一つとしてプロ野球球団設立を提案。1950年1月に国鉄スワローズが誕生する。因みに読売新聞は「鉄道マンが鉄道で自殺するはずがない」という主張から下山他殺説を報じており、この事がスワローズのセ・リーグ(=読売主導)入りに繋がったとされる。
しかし1951年4月に死者106名を出す桜木町事故(国鉄戦後五大事故の一つ)が発生すると、加賀山はその責任を取って8月24日に辞任した。事故は国鉄職員による人災の要素も強かったため、国鉄スワローズの存在は「野球に興じている場合ではない」などと加賀山への攻撃材料の一つともなった。
国鉄の経営は以後も悪化を続け、1962年5月に死者160名を出す三河島事故(これもまた国鉄戦後五大事故の一つ)を起こしたことがきっかけとなって、球団経営をサンケイグループに譲渡することが決定。1965年にサンケイスワローズ(翌年にサンケイアトムズ)へと生まれ変わっている。
ところで加賀山は国鉄初代総裁候補の一人でもあった。しかし戦中のベルリン滞在経験がGHQから敬遠され、アメリカ通であった下山が総裁へ推されたということらしい。歴史に if は無いが、もしも加賀山総裁・下山副総裁体制だったら本事件は起こらなかったのだろうか。それとも結局似たような事件が起きたのだろうか…。なお、加賀山は1970年8月に68歳で亡くなっている。
【下山追憶碑】
事件の追悼碑が東京都足立区西綾瀬にある。綾瀬駅から常磐線の高架に沿って北千住駅(あるいは東武線の小菅駅)方面へ歩いていくと見つかる。下の写真は2020年11月22日に筆者が撮影したもの。
元々は下山轢断地点に近い地点に建立されたのだが、周辺の工事に伴って1991年に現在の場所へ移動したらしい。因みに筆跡は加賀山によるものである。
【参考サイト】
下山事件資料館
http://www.shimoyamania.org/
「下山事件」の真相は他殺か?自殺か?ー側近が振り返るあの日の”後悔”とは(文春オンライン, 2019年6月30日掲載)
https://bunshun.jp/articles/-/12498
仕事のストレスとプレッシャーから自殺したとされる一方で、何者かにより殺害された後に自殺に見せかけるために線路に放置されたとする他殺説も強く指摘され、最終的に警察は自殺とも他殺とも結論づけぬまま捜査を終了してしまう。
下山事件から約1ヶ月の間に発生した三鷹事件、松川事件を合わせて「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれている。
【下山の略歴】
下山 貞則(しもやま さだのり)は1901年7月23日生まれ。出身は兵庫県だが、司法官である父親の都合で少年時代は転校が多く、転校する度にその都市の駅の時刻表を暗記していたという。北海道から鹿児島までの駅名を暗唱して「鉄道」というあだ名をつけられたこともあった。
1925年に東京帝国大学工学部を卒業して鉄道省に入省。順調に出世していき、第二次大戦も乗り越えて、1946年3月から東京鉄道局長を務める。1948年4月には運輸次官に就任。そして1949年6月1日に国鉄が発足すると初代総裁に就任した。この時、47歳であった。
【まずは首切りから】
一見順当な人事に思える下山の総裁就任だが、実は多くの候補がその座を拒絶した後、止む無く就任を引き受けたという経緯がある。
戦後の「国有鉄道」は復員兵や海外引揚者を多く雇用したため財政が極度に悪化していた。インフレの影響もあり、労働争議も頻繁に起こった。そこでGHQ総司令官のマッカーサーは、国家公務員の争議を禁止する一方で、国有鉄道を含むいくつかの国営事業を行う職員を準公務員扱いにし、一定の労働権を認めた上でより効率的な事業経営を目指させた。こうして新たに政府出資の新法人として「日本国有鉄道」が発足することが決まる。
しかし1949年になると、中国では国内共戦における中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも共産党勢力と親米派の対立が深まった。そこでGHQ(というかアメリカ)はいわゆる「逆コース」により日本を「反共の砦」と位置づけることとし、訪日したデトロイト銀行頭取のジョゼフ・ドッジが提案した緊縮財政策「ドッジ・ライン」を実行することで日本経済の立て直しを急いだ。
ドッジ・ラインに基づく政策の一つが1949年5月に成立した「行政機関職員定員法」である。これは国鉄や専売公社などの準公務員約128万名のうち約28万名、地方自治体職員約117万名のうち約13万名を「整理」するというもので、特に国鉄は職員約62万名のうち約10万名を整理するという強烈なものであった。
こうして国鉄初代総裁の仕事は首切りから始まることとなった。しかも1月の衆議院総選挙では日本共産党が議席を大幅に増やしており、その勢いに乗って国鉄労組も首切りに徹底抗戦の構えを見せていた。そうなれば誰も国鉄総裁職など引き受けたがるはずがない。そして近鉄社長の村上義一や、元阪急電鉄社長の小林一三らが拒絶した末、下山が初代総裁に就くことが決まったのである。下山は運輸次官を辞して1950年の参議院選挙に立候補することを考えていたところだったという。
【国鉄発足】
1949年6月1日に国鉄が発足。早速、下山は労組との団体交渉に忙殺されることとなる。しかし当然ながら没交渉。すると各地にストが飛び火していき、6月10日には神奈川で「人民電車事件」が発生する。これは人民電車とペンキで大きく書かれた車両を職員が勝手に走行させ、しかも乗客を無賃乗車させたというものである。電車の窓からは赤旗が靡いていたとされる。関わった職員は後に電車往来危険罪等で起訴された。
進まぬ首切りに対してGHQから下山へのプレッシャーは強まっていく。そうして事件前日の7月4日、遂に第一次整理通告として3万700人の名簿が発表される。通告は夕方終業間際に行う予定だったが、既に名簿が労組側に漏れているらしいとの情報もあり、早めて午後15時過ぎに行うこととなった。
下山の身に危険が及ぶことも考えられ、側近は外出することを薦めたが、下山は「逃げ回りたくなどない」として断固拒否する。そこで側近は「政府関係者へ報告に行ったらどうか」と説得して、下山はようやく応じた。そうして下山は首相官邸や警視庁などに出向いたのだが、伝えられる情報によれば、下山が関係各所でとった言動はほとんど奇行であった。鬱病なども感じさせる。最終的には20時過ぎに国鉄本社に戻り、社内会議にすこし顔を出した後、22時前に自宅へ帰った。
【首切り発表翌日の朝】
失踪当日の7月5日の行動も前日の奇行に続いて謎が多い。午前7時過ぎに起床した下山は、8時15分頃に大西政雄の運転する黒のビュイックに乗って大田区池上町の自宅を出発。9時から国鉄本社で局長会議が開かれることになっており、秘書の大塚はいつものように8時45分頃から本社玄関前に立って待っていた。しかし下山は大西に次々と行き先を指示して一向に本社へ向かおうとしなかったのである。
まず下山は御成門付近で「佐藤さんのところへ寄るのだった」と言い出した。佐藤さんとは当時自民党政調会長の佐藤栄作(後の首相)のことで、佐藤は鉄道省出身であり下山の先輩にあたる。佐藤は芝三田小山町に住んでおり、御成門のあたりからはそう離れていない。しかし大西が「引き返しましょうか」と尋ねると、下山は「いや、よろしい」と答えた。
次に和田倉門ロータリー(東京駅前ロータリー)のあたりに来たところで「買い物をしたいから」銀座三越へ向かうように指示がある。時刻は既に8時45分頃になっていたが、下山は「役所は10時までに行けばいいんだ」などと呟いていたという。
大西は銀座三越を目指す。そして呉服橋ガード(東京駅北側ガード)をくぐろうとするとすると、下山は「日本橋白木屋でもよいから真っ直ぐに行ってくれ」と頼んだ。三越に向かう場合は外濠通りで左折すべきだが、この下山の指示により大西は左折せずに真っ直ぐ白木屋へ向かった。
8時48分頃、車は白木屋に着く。しかし白木屋はまだ開いていなかった。それを聞いた下山は「うん」とだけ答えた。大西は再び銀座三越へ向かうことにした。だが、三越も開店前。開店は9時半からだった。下山はまたしても「うん」と言ったきりで、次に大西が「役所にまいりますか?」と聞くと、それにも「うん」とだけ答えた。
まだまだ迷走は続く。車が常磐橋ガードまで来たところで、下山は突然「神田駅に行ってくれ」と言い出したのである。だが、車は神田駅西口に着いたが、下山は降りようともしない。今度こそ役所に向かうかと大西は考えたが、車が呉服橋まで来たところで下山は「三菱銀行(千代田銀行)」へ向かうように言った。丸の内にある銀行本店へ向かうには国鉄本社前を通り過ぎることになるが、その時に下山は「もっと早く走れないか」と怒ったとされる。
9時5分頃に千代田銀行本店着。下山は一人で銀行へ入り、20分ほどして戻ってきた。下山は総裁になってから私金庫を利用しており、その金庫の鍵を貰って地下へ行ったようである。なお、前日7月4日にも千代田銀行を訪れていたのだが、この2日間にいくらの金を出入りさせたのかはよく分かっていない。
やがて戻ってきた下山は「これから行けば丁度いいだろう」と言った。三越の開店時刻の事かと思った大西は再び三越へ向かう。そして三越が開店していることを確認すると、下山は「5分で済むからな」と言い残して店内へ消えていった。9時37分頃のことである。ここで下山は消息を絶つ。
【失踪】
なかなか出社しない総裁に対して国鉄本社の緊張は高まった。自宅に電話すれば「もう家を出た」と言うし、GHQなど関係役所に尋ねても「来ていない」と言う。とうとう昼過ぎには警察に通報し、下山を乗せたビュイックの捜索が開始された。
他方で大西運転手はなかなか戻らない下山のことを気にしていなかった。というのも、百貨店での買い物で数時間待たされることなどしょっちゅうあったからだ。しかし17時過ぎのラジオニュースで下山失踪の一報が流れると事の重大さに気づき、慌てて三越店内に飛び込んで下山を探し始めた。国鉄本社にも状況を報告した。
警察により大西の取り調べと三越店員の聞き込みが開始された。下山らしき人物を目撃した店員は何名かいた。特に地下鉄に向かったという証言は重要視された。三越店内は地下鉄に直結しており、それに乗って何処かへ向かったのではないかということだ。下山は朝の車中で「日本橋白木屋でもよい」と言っていたが、白木屋もまた地下鉄駅に直結しており、何かしらの関連があったのではないかと推理できる。
【轢死体】
警察は下山の行方を掴むことが出来なかったが、日付が変わった7月6日0時過ぎに下山は衝撃的な姿を現す。常磐線北千住ー綾瀬駅間の線路で轢死体となって発見されるのである。
最初に死体に気づいた列車の運転手はその白い肌から女性のそれだと思ったらしい。しかし運転手の通報により駅員が現場に駆けつけると、そこには下山の名刺が散らばっており、駅員は直ちに事態を察した。
下山の体は5つに轢断されていた。轢いたのは6日0時19分頃に現場を通過した869号貨物列車であると特定。同貨物列車は出発が遅れており、遅れを取り戻すためにスピードを上げて轢断現場を通過していたという。
【捜査】
一見、仕事のストレスから自殺に至ったようにも思えるが、下山の遺体の状況を巡って「生体轢断」か「死後轢断」かで法医学界の意見は真っ二つに分かれてしまう。生体轢断であれば自殺の可能性が強まり、死後轢断であれば他殺の可能性が強まる。
司法解剖を指揮した東大法医学部教室の古畑 種基(ふるはた たねもと)は死後轢断と認定した。遺体の轢断傷に生活反応が見られないことが根拠であるとする。また、遺体の損傷が激しく死因は認定できないものの、遺体や現場にほとんど血液が確認されなかったことから失血死、あるいは股間などに内出血が認められたことから股間を蹴るなどの暴行が加えられた可能性を指摘した。
一方で、現場で遺体を検分した東京都監察医務院の八十島 信之助(やそしま しんのすけ)は生体轢断と認定し、「自殺」と断定する。遺体に生活反応が見られなかったのは事実で、また死斑も確認されなかったが、多くの轢死体(自殺だけでなく事故も含む)を検分した経験からそのような例は珍しくないと主張した。血液反応が少なかったことについても、遺体発見当時の現場には大雨が降っており、その雨によって血液が流されたことで説明がつくとした。八十島に同行していた警視庁捜査一課も自殺説を推した。
このような事態に対して、1949年8月30日の衆議員法務委員会に、古畑と、死後轢断に疑問を呈す慶応義塾大の中館 久平、同じく生体轢断説をとる元・名古屋大の小宮喬介が参考人招致される。その場で古畑は「解剖を執刀した桑島 直樹講師は他殺とも自殺とも言っていない。死後轢断という所見を述べただけで、研究は継続中だ」などと述べた。
古畑は権威ある法医学者として多くの昭和の事件に関わったが、財田川事件や免田事件などで重大な鑑定ミスを犯してもいる。本事件についても果たしてその所見は正しかったのかと疑問を抱いてしまうのもやむを得まい。
【結末】
下山事件捜査特別本部は事件について何らの公式発表も無いまま、1949年12月に早くも解散してしまった。これにて捜査は終了。翌1950年1月、文藝春秋誌と改造誌に下山国鉄総裁事件捜査報告(いわゆる下山白書)が掲載されたが、これは結論を出せないまま解散してしまった捜査本部からのリークだったと考えて間違いないだろう。報告はやはり自殺で結論付けられていた。
なお、知能犯を扱う捜査二課や東京地検は他殺説を推し、捜査一課とは別に事件を追っていたのだが、こちらも責任者の転属などがあり自然消滅していった。
【推理】
結論無きまま公式な捜査は終了してしまったが、その後も多くの人物が事件の真相を追った。最も有名なものは松本清張が1960年に連載した「日本の黒い霧」であろう。下山事件は日本の黒い霧の第1話として取り上げられ、最も力を入れて書かれた。
清張の最終的な結論はGHQによる謀殺説であり、「黒い霧」第2話以降もGHQ(あるいはアメリカ軍)の関与という筋で戦後の重大な事件を検証していった。下山事件へのGHQ(あるいはアメリカ軍)の関与は事件直後より指摘する者もあったものの、本作のヒットにより大々的に議論されるようになっていく。
朝日新聞の矢田喜美雄は、遺体や遺留品の鑑定を進めるうちに、下山のワイシャツやズボン、下着にまで大量の油(いわゆる下山油)が付着していることに気づいた。油の成分分析では95%以上がヌカ油という結果で、当時の機関車は鉱物油を使用していたのでそこには矛盾が生じる。またジャケットや革靴には油は付着していなかった。さらには日本で初ともいわれるルミノール検査まで実施し、下山の血液は轢断地点から列車の進行方向とは逆の方向へ続いており、さらにその先にある無人のロープ小屋でも反応があったと主張した。
矢田は1973年に「謀殺下山事件」を発表。タイトルのとおりなのだが、矢田は轢断現場地点で下山らしき人物を目撃したとする人々への取材を続けるうちに、アメリカ軍機関に命じれられて下山の遺体を現場へ運んだとする男に出会い、その証言の信憑性からやはり本事件にはアメリカ軍の関与があったと結論づけるものである。
下記松川事件の犯人として逮捕・起訴され、14年もの法廷闘争の末に1963年に無罪判決を勝ち取った佐藤 一は、判決確定後に清張や共産党に請われる形で「下山事件研究会」に加わり、事務局長の立場で事件の真相を追った。
佐藤は初めGHQや日本政府による謀殺説を取っていたが、調査を進めるうちに自殺説を確信するに至る。他殺説をとる研究会とは袂を分かち、共産党からも除名されつつ、佐藤は1976年に「下山事件全研究」を発表。そこでは各種証拠や矢田らの主張に対して丁寧な検証を加え、最終的には鬱病による発作的な自殺と結論づけた。同時に、GHQや日本政府は自殺という事実を敢えて隠しておくことで、マスコミ主導による「事件は共産主義者によるテロ行為」という認識を世間に植え付けさせることに利用したと指摘した。
佐藤は下山事件だけでなく他の冤罪が指摘される事件の研究を続け、島田事件や狭山事件に関しても重要な著作を残した。2006年には「松本清張の陰謀 『日本の黒い霧』に仕組まれたもの」を発表し、下山事件だけに限らず日本の黒い霧全編について感情的な批判を加えている。2009年死去。享年87。
【国鉄三大ミステリーとその背景】
国鉄では下山事件発生からおよそ1ヶ月のうちに更に2つの重大事件が発生した。下山事件とそれら2事件はいずれも真相が謎に包まれているということで「国鉄三大ミステリー」と通称される。
三鷹事件(1949年7月15日)
無人の電車が暴走して三鷹駅の車止めを突き破って脱線。線路脇の商店街で6名の市民が亡くなる。
共産系の国鉄職員複数名が逮捕されるも、運転士の竹内景助が自分単独の犯行であると主張。
竹内は一審無期懲役判決も二審は死刑判決。最高裁では8対7の票差で死刑確定。1967年に45歳で病死。
竹内のアリバイや犯行内容などについて不審な点が多数指摘されている。
竹内の長男は父親の無罪を信じて21世紀になってからも再審請求を続けている。
松川事件(1949年8月17日)
福島県を走行中だった列車が突如脱線転覆。機関士など乗員3名が亡くなった。
線路継ぎ目のボルトやナットが緩められていることが判明して国鉄職員ら計20名を逮捕。
一審では何名かに死刑判決が出るも、最終的に差し戻し高裁審で全員の無罪が確定。
被告らのアリバイを証明するメモ書きの存在を検察側が隠していたなど不審な点が多数ある。
他に1948年4月の庭坂事件、1949年5月の予讃線事件、1951年まりも号脱線事件もよく知られている。いずれも犯人不明の未解決事件である。
事件は何の目的で起こされたのだろう。自殺の可能性を残す下山事件を含め、いずれの事件も国鉄の労働争議が深く関係しているのは間違いあるまい。三鷹事件が発生したのは国鉄労組が闘争宣言を発した日であり、松川事件が発生したのは東芝松川工場が解雇反対のストに入った正にその日なのだから。
しかし各事件は、反共の立場から見れば共産主義者によるテロであり、共産主義者の立場から見れば反共主義者によるでっち上げということになり、その論争に決着がつくことはない。さらに国鉄内だけでなく日本政府やGHQ等の関与まで考慮し始めたらもう手には負えない。全ての真相は闇の中と言う他ない。
事件の真相はともかくとして、7月4日の第一次整理通告に続き、三鷹事件直前の7月13日には約6万3000人を対象とする第二次整理通告が行われ、「首切り」は粛々と進められた。マスコミが各種重大事件を「共産主義者によるテロ」と結びつけて報道したことで労働者側の勢いが完全に削がれたことも効いた。
ここに挙げた以外にも列車妨害事件は多発していたのだが、1949年5月に約250件、6月に約500件、7月には約1500件と増えていったところで、首切り完了後は急速に件数が減っていく。さらに1950年11月には国鉄でもレッドパージが行われ、461人もの職員が追放された。かくして戦いを制したのは「反共」だった。
【後継総裁とスワローズ】
下山の死後、副総裁だった加賀山 之雄(かがやま ゆきお)が総裁代行に就任する。そして三鷹事件と松川事件が起こった後の9月24日に正式に総裁に就任した。加賀山は野球好きであり、そこから労使対立解消策の一つとしてプロ野球球団設立を提案。1950年1月に国鉄スワローズが誕生する。因みに読売新聞は「鉄道マンが鉄道で自殺するはずがない」という主張から下山他殺説を報じており、この事がスワローズのセ・リーグ(=読売主導)入りに繋がったとされる。
しかし1951年4月に死者106名を出す桜木町事故(国鉄戦後五大事故の一つ)が発生すると、加賀山はその責任を取って8月24日に辞任した。事故は国鉄職員による人災の要素も強かったため、国鉄スワローズの存在は「野球に興じている場合ではない」などと加賀山への攻撃材料の一つともなった。
国鉄の経営は以後も悪化を続け、1962年5月に死者160名を出す三河島事故(これもまた国鉄戦後五大事故の一つ)を起こしたことがきっかけとなって、球団経営をサンケイグループに譲渡することが決定。1965年にサンケイスワローズ(翌年にサンケイアトムズ)へと生まれ変わっている。
ところで加賀山は国鉄初代総裁候補の一人でもあった。しかし戦中のベルリン滞在経験がGHQから敬遠され、アメリカ通であった下山が総裁へ推されたということらしい。歴史に if は無いが、もしも加賀山総裁・下山副総裁体制だったら本事件は起こらなかったのだろうか。それとも結局似たような事件が起きたのだろうか…。なお、加賀山は1970年8月に68歳で亡くなっている。
【下山追憶碑】
事件の追悼碑が東京都足立区西綾瀬にある。綾瀬駅から常磐線の高架に沿って北千住駅(あるいは東武線の小菅駅)方面へ歩いていくと見つかる。下の写真は2020年11月22日に筆者が撮影したもの。
元々は下山轢断地点に近い地点に建立されたのだが、周辺の工事に伴って1991年に現在の場所へ移動したらしい。因みに筆跡は加賀山によるものである。
【参考サイト】
下山事件資料館
http://www.shimoyamania.org/
「下山事件」の真相は他殺か?自殺か?ー側近が振り返るあの日の”後悔”とは(文春オンライン, 2019年6月30日掲載)
https://bunshun.jp/articles/-/12498