2006年12月27日、千葉県千葉市中央区の路上にて、男性X(当時48歳)が通りすがりの女性Y(18歳)を脅迫してビルの階段屋上踊り場まで連行し、その場で強姦したとされる事件が発生した。
一審・二審では男性Xに懲役4年の判決が下されるも、最高裁では逆転無罪判決。最高裁が「事実認定の誤り」を理由に無罪判決を出すのは異例とされる。ただし裁判官4名のうち1名は無罪判決に対して反対意見を付けた。
最高裁判決では「容易に助けを求められそうな状況でもそうしなかったこと」など、被害者女性Yの供述全般に対して疑問が呈された。一方で、被告男性Xは報酬を支払うことを装って女性を誘い出し手淫をさせるといった行為を100回以上も繰り返しているという人物であったが、そのような人物が女性を脅迫して強姦するというよりリスクの高い行動を取るのか疑問とされ、「女性Yを報酬で誘い出して手淫させただけだ(つまり強姦はしていない)」という男性Xの供述が信用された。
【事件発生】
2006年12月27日午後19時10分頃、男性X(当時48歳)はJR千葉駅での納品の仕事を終え、トラックを駐車場に停めつつ、京成電鉄千葉中央駅前の歩道を歩いていた。そこでXはたまたま通り掛かった初対面の女性Y(当時18歳)に劣情を催した。XはYに対して近くにカラオケ店があるかを尋ね、「待ち合わせをしている女性が来ないので困っている」などと話しかけた。
ここから以下はYの供述に基づくものである。
YがXの話に応じていたところ、Xは突然態度を豹変させて「ついてこないと殺すぞ」などと脅迫しだした。そしてコートの袖をつかんで引っ張るなど暴行し、80メートル先にあるビルの外階段屋上踊り場まで連行すると、そこでYを壁に押し付けて強姦した。Xが射精すると、その精液がYのコートの右袖外側の袖口部分の表面及び裏面に付着したという。射精したXは一人でビルから立ち去る。この時、ビルの警備員が巡回でたまたま通りがかり、XとYのすぐ近くまで来たものの、2人のことに気づかなかったのかそのまま通り過ぎてしまった。
Yは勤務先のキャバレーで頼まれた買い物の途中であった。そこで一度キャバレーに戻り、従業員らに被害を報告。そして20時30分頃、キャバレーの経営者や従業員を連れてビルの警備室を訪れる。一同は見て見ぬ振りをした警備員に抗議するも、口論に発展して警察沙汰となってしまう。Yは駆けつけた警察に改めて強姦被害に遭ったことを申告した。
【男性検挙と有罪判決】
上記千葉での事件からおよそ1年半後の2008年6月、東京都足立区にて、同じ男性Xは報酬の支払いを条件に女性をマンション階段踊り場に誘い出し、自らが手淫をする様子を見るように依頼した。しかし女性の手のひらに射精したのに、Xは報酬を支払わずにそのまま逃走してしまう。女性は警察に被害を訴え、Xは事情聴取された。
結局この件は事件にならないものとして処理されたが、この時にXの精液のDNAが鑑定され、なんと千葉県の事件でYのコートに残った精液のDNAと一致した。こうしてXは検挙されるに至った。
Xは、金銭報酬を装って女性を誘い出しそこで女性に手淫させるといった行為を、4~5年間でなんと100回以上も繰り返していたと認めた。Xのケータイからもそれを裏付けるような写真が相当数見つかった。一方でXは千葉での事件について、足立区の事件と同じ様に3万円を報酬にしてYを誘い出し、Yの合意を得た上で手淫行為をさせたのであり、Yが証言する強姦行為はしていないと弁解した。
千葉の事件に直接証拠は無く、当事者の証言があるのみ。しかし一審・千葉地裁とニ審・東京高裁では被害者Yの証言が概ね認められ、男性Xに懲役4年の有罪判決が下された。
【最高裁判決】
2011年7月25日、最高裁判決。1審・2審判決を破棄して逆転無罪判決。ただし裁判官4名のうち1名は反対意見を付けた。また、2名が補足意見を加えた。
まず、本件事件において、暴行・脅迫・姦淫を基礎付ける客観的な証拠は存在せず、証拠は被害者Yの供述があるのみで、その信用性判断は特に慎重に行う必要がある、と説明された。
暴行・脅迫については、人通りもある時間帯であり、近くに交番もあり、ビル駐車場に係員もいて、逃げたり助けを求めることが容易にできる状況であったと認定。Yは「恐怖で頭が真っ白になり、変に逃げたら殺されると思って逃げることができなかった」と供述するも、それを考慮したとしても逃げたり助けなかったのは疑問で、供述は不自然であって容易には信じ難いと指摘された。また通りがかった警備員に関しても、Yは涙を流している自分と目が合って、この状況を理解してくれると思い、それ以上のことはしなかったと供述するも、このような対応は不自然であると指摘した。
次に姦淫について、Yの右足が20センチ余り身長差のあるXの左手によって持ち上げられ、立ったまま無理やり姦淫されたと供述するも、これは不安定な体勢であり、わずかな抵抗をしさえすれば拒むことができると指摘した。また、この体勢による姦淫は不可能ではないにしても容易でなく、姦淫が行われたこと自体疑わしいと指摘した。加えて、Yの膣液からはXの精液の混在は認められず、膣等に傷ができているなどの無理矢理姦淫されたことを裏付ける証拠もなかった。また、Yは強姦されて破れてしまったパンストをコンビニのゴミ箱に捨てた後、新しいパンストを購入したと述べたが、この点に関する詳細が一審・ニ審で変遷しており、一連の供述からも姦淫行為があったとするには疑義があると結論付けている。
他方、Xは本事件に関して、金銭報酬を条件にYにの同意を得て現場に一緒に行き、手淫をしてもらって射精したと供述する。Xはまた日頃からそのような行為にしばしば及んでいたと述べ、事実足立区でも同様の事件を起こしており、ケータイにもそのような機会に撮影した写真が相当数存在することを考慮すると、被告人の供述はたやすく排斥できないと述べた。
以上から、上記のような諸事情を適切に考察することなくYの供述を全面的に信用した一審・ニ審判決は、経験則に照らして不合理であり、是認することができない。Xが犯行を行ったと断定するには、なお合理的な疑いが残り、犯罪の証明が十分でないものといわざるを得ない、としてXに無罪を言い渡した。
【須藤裁判官の補足意見】
気になった点のみ抜粋します。全文は判決文を参照下さい。
男性Xがそれまでに行っていた手口は、金銭報酬を支払うことを装って女性を誘い込むというものである。一方で、容易に助けを求められるような路上において、女性Yを威圧して連行するという手口はリスクが大きい。経験則上、より安全な手法とリスクの大きい手法がある場合、人は特段の事情が無い限りリスクの大きい手法を取ると考えにくい。するとYの証言の信用性には疑問を抱かざるを得ない。
書面による間接的な審理を行うだけの最高裁が、供述の信用性や事実認定の当否に介入することは基本的に慎重であるべきだろう。だが、最高裁は最終審であり、犯罪を犯していない被告人を救済する最後の砦である。犯罪を犯した者を犯罪者としないことは疑いもなく不正義である。だが、犯罪を犯していない者を犯罪者とすることは、人権侵害であり、許され得ない不正義にあたる。本件犯罪事実について合理的な疑いを超えた証明がなされたといえない以上、「疑わしきは被告人の利益に」の鉄則に戻るべきである。
【千葉裁判官の補足意見】
長いですが、なかなか興味深い内容です。全文は判決文を参照下さい。
一般に、被害者の供述はそれが狂言でない限り、被害体験に基づくものとして迫真性を有することが多いが、そのことから被害者の供述であるというだけで信用できるという先入観を持ち得る。他方、被告人の弁解は、嫌疑を晴らしたいという心情からされるため、一般には疑わしいという先入観を持ち得る。すると信用性の判断を誤るおそれがあり、信用性の評価に際しては留意すべきである。
刑事裁判の使命は、証拠を的確に評価し、適切な事実認定を行うことである。自己独自の知見で不十分・不完全な証拠をつなぎ合わせ、犯罪の成立を肯定する方向で犯罪の事実認定を行うべきではない。
一般に、女性が男性に威圧されて恐怖心に支配されることはあり得るものの、Yが当時の状況において叫んだり、助けを呼ぶこともなく、逃げ出したりもしていないことには疑問がある。Yは18歳で若年だが、当時、キャバクラで勤務しており、それなりの社会経験を有し、若年であることを過度に重視すべきでない。Xが日常的な会話をしていたところから突然「ついてこないと殺すぞ」などと言い出したことも唐突な感じがある。Xは、JR千葉駅での仕事を終えてから帰社するまでの間に行為に及んだことになるが、合意による手淫なら別であるが、強姦といった大きな犯行までやり遂げるには時間があまりにも足りない気がする。
YはXに無理矢理姦淫されたとし、当初警察取り調べでは挿入時間を10分と供述したが、長すぎたと感じたためか、検察官の取り調べでは3~4分間と供述変えている。しかも、膣液に精液が混在しているとか、膣に傷もあるといった客観的証拠は存在しない。客観的証拠が全く存在しない以上、それでも姦淫を認めるためには、信用性を有する他の十分な証拠の存在が強く要請される。
重要な事実として、Yはパンストを無理矢理脱がされて破れたのでコンビニのゴミ箱に捨てたと供述している。これは強姦の決め手にもなり得る重要な点であるが、そのパンストは事件直後の捜査でも発見されなかった。
Yは代わりのパンストをコンビニで買ったと述べるが、その時に一緒に買ったものについて供述が変遷している。すると、破れたパンストを捨てたとする供述も疑わしいということになる。
Yはキャバレーに戻り、従業員から泣いていた理由を問われれると「やられた」と応えたと供述している。しかしこれだけで強姦の被害を表すものと断定できない。被告Xが供述するように、報酬3万円を条件に嫌々手淫をさせられ、その挙げ句報酬を支払わずに逃げられた、そのことをもってYは「やられた」と応えたのだと推察もされ得る。
被告Xは、捜査段階から1審にかけて、不自然という指摘に対して相応に供述を変遷させており、その意味では、姑息で場当たり的で真摯な態度とは到底言い難い。
しかし被告は、報酬を条件に手淫してもらうという行為を繰り返し、ケータイにもその証拠と思われる画像が多数あり、被告はその方向の嗜好を強く有する者と推察され、本件も強姦ではなくこれらと同様の行為だとする弁解も、むげに排斥することはできないところである。
Yの供述内容が一貫している等の理由でその信用性を肯定し、決め手となる証拠も提出されていないのに、被告人の弁解を排斥して強姦の犯罪事実を認定することは、「合理的な疑いを超えた証明」の点から大いに問題があるといわなければならない。
【古田裁判官の反対意見】
本件において原判断の証拠評価及びこれに基づく認定に経験則に照らして不合理はなく、上告を棄却すべきものと考える。
通行人が相当数ある路上での脅迫・暴行が行われるのもまれではない。性犯罪の被害者(多くの場合女性)が、突然態度を豹変させて威圧する相手に対して恐怖を感じ、パニックに陥るのはよくあることである。そうなれば、警察官がすぐ近くにいても助けを求めることができないのも珍しいことではない。また、この種の犯罪では、通行人もよほどの異常を感じない限り、男女間の問題として見ないふりをすることが多い。
女性が抵抗できないことは不自然ではないとした上で、Yがされた姦淫の方法は立位のそれとして代表的であり、身長差についてもパンプスが脱げていたことや、壁にもたれかかる姿勢を取らされていたことを考えれば不自然ではない。
膣内から精液が検出されていないのは、膣内で射精していなければむしろ当然である。そのような場合でも精液が検出されることは当然あるが、検出されないことが不自然という法医学上の知見は承知しない。外傷についても、被告にされるがままになっていれば顕著な傷害が生じる可能性は考えられない。姦淫行為があった客観的証拠はないが、それ自体不自然なことではなく、Yの供述が不自然という理由にはならない。
ゴミ箱からパンストが発見されないのはどの段階でゴミ箱が捜査したかにもより、コンビニでパンストだけを買ったのか他にも何か買ったのかはショックを受けて明瞭に供述できなくなっても不自然でない。
多数意見は被告Xの供述を一概に否定しないが、Xの供述は、Yに対する報酬の支払いに関してなど、重要な点で変遷している。Xは状況を見ながら弁解を転々と変更している様子が顕著に伺え、その供述に信をおくことはできない。
【判決の影響】
2009年4月14日、防衛医大教授が電車内で痴漢行為を行ったとされる事件の最高裁判決が出された。この事件も一審・ニ審で有罪判決だったが、最高裁では被害者供述の信用性が否定されて無罪判決となり、痴漢行為が「冤罪」であったと認定されたものである。この事件の最高裁判決における補足意見は、本事件の最高裁判決でも言及されている。
性犯罪に苦しんでいる被害者は多くいるが、一方的な証言によって多くの冤罪が生み出されているのもまた事実。千葉裁判長が指摘するように先入観は排除し、審理には慎重でなければならない。その意味で上記事件と本事件は重要な判例となるだろう。
筆者の個人的意見ですが、反対意見を書いた古田裁判官は検察出身であり、その経歴が意見に反映されているような印象があります…。
【裁判官情報】
千葉 勝美(ちば かつみ)
本事件の裁判長。1946年生まれ。2009年12月より最高裁判事。2016年8月定年退官。
古田 佑紀(ふるた ゆうき)
1942年生まれ。検察出身。2005年8月より最高裁判事。2012年4月定年退官。
竹内 行夫(たけうち ゆきお)
1943年生まれ。外務省出身。2008年10月より最高裁判事。2013年7月定年退官。
須藤 正彦(すどう まさひこ)
1942年生まれ。弁護士出身。2009年12月より最高裁判事。2012年12月定年退官。
【判決文】
最高裁平成22年(あ)第509号
一審・二審では男性Xに懲役4年の判決が下されるも、最高裁では逆転無罪判決。最高裁が「事実認定の誤り」を理由に無罪判決を出すのは異例とされる。ただし裁判官4名のうち1名は無罪判決に対して反対意見を付けた。
最高裁判決では「容易に助けを求められそうな状況でもそうしなかったこと」など、被害者女性Yの供述全般に対して疑問が呈された。一方で、被告男性Xは報酬を支払うことを装って女性を誘い出し手淫をさせるといった行為を100回以上も繰り返しているという人物であったが、そのような人物が女性を脅迫して強姦するというよりリスクの高い行動を取るのか疑問とされ、「女性Yを報酬で誘い出して手淫させただけだ(つまり強姦はしていない)」という男性Xの供述が信用された。
【事件発生】
2006年12月27日午後19時10分頃、男性X(当時48歳)はJR千葉駅での納品の仕事を終え、トラックを駐車場に停めつつ、京成電鉄千葉中央駅前の歩道を歩いていた。そこでXはたまたま通り掛かった初対面の女性Y(当時18歳)に劣情を催した。XはYに対して近くにカラオケ店があるかを尋ね、「待ち合わせをしている女性が来ないので困っている」などと話しかけた。
ここから以下はYの供述に基づくものである。
YがXの話に応じていたところ、Xは突然態度を豹変させて「ついてこないと殺すぞ」などと脅迫しだした。そしてコートの袖をつかんで引っ張るなど暴行し、80メートル先にあるビルの外階段屋上踊り場まで連行すると、そこでYを壁に押し付けて強姦した。Xが射精すると、その精液がYのコートの右袖外側の袖口部分の表面及び裏面に付着したという。射精したXは一人でビルから立ち去る。この時、ビルの警備員が巡回でたまたま通りがかり、XとYのすぐ近くまで来たものの、2人のことに気づかなかったのかそのまま通り過ぎてしまった。
Yは勤務先のキャバレーで頼まれた買い物の途中であった。そこで一度キャバレーに戻り、従業員らに被害を報告。そして20時30分頃、キャバレーの経営者や従業員を連れてビルの警備室を訪れる。一同は見て見ぬ振りをした警備員に抗議するも、口論に発展して警察沙汰となってしまう。Yは駆けつけた警察に改めて強姦被害に遭ったことを申告した。
【男性検挙と有罪判決】
上記千葉での事件からおよそ1年半後の2008年6月、東京都足立区にて、同じ男性Xは報酬の支払いを条件に女性をマンション階段踊り場に誘い出し、自らが手淫をする様子を見るように依頼した。しかし女性の手のひらに射精したのに、Xは報酬を支払わずにそのまま逃走してしまう。女性は警察に被害を訴え、Xは事情聴取された。
結局この件は事件にならないものとして処理されたが、この時にXの精液のDNAが鑑定され、なんと千葉県の事件でYのコートに残った精液のDNAと一致した。こうしてXは検挙されるに至った。
Xは、金銭報酬を装って女性を誘い出しそこで女性に手淫させるといった行為を、4~5年間でなんと100回以上も繰り返していたと認めた。Xのケータイからもそれを裏付けるような写真が相当数見つかった。一方でXは千葉での事件について、足立区の事件と同じ様に3万円を報酬にしてYを誘い出し、Yの合意を得た上で手淫行為をさせたのであり、Yが証言する強姦行為はしていないと弁解した。
千葉の事件に直接証拠は無く、当事者の証言があるのみ。しかし一審・千葉地裁とニ審・東京高裁では被害者Yの証言が概ね認められ、男性Xに懲役4年の有罪判決が下された。
【最高裁判決】
2011年7月25日、最高裁判決。1審・2審判決を破棄して逆転無罪判決。ただし裁判官4名のうち1名は反対意見を付けた。また、2名が補足意見を加えた。
まず、本件事件において、暴行・脅迫・姦淫を基礎付ける客観的な証拠は存在せず、証拠は被害者Yの供述があるのみで、その信用性判断は特に慎重に行う必要がある、と説明された。
暴行・脅迫については、人通りもある時間帯であり、近くに交番もあり、ビル駐車場に係員もいて、逃げたり助けを求めることが容易にできる状況であったと認定。Yは「恐怖で頭が真っ白になり、変に逃げたら殺されると思って逃げることができなかった」と供述するも、それを考慮したとしても逃げたり助けなかったのは疑問で、供述は不自然であって容易には信じ難いと指摘された。また通りがかった警備員に関しても、Yは涙を流している自分と目が合って、この状況を理解してくれると思い、それ以上のことはしなかったと供述するも、このような対応は不自然であると指摘した。
次に姦淫について、Yの右足が20センチ余り身長差のあるXの左手によって持ち上げられ、立ったまま無理やり姦淫されたと供述するも、これは不安定な体勢であり、わずかな抵抗をしさえすれば拒むことができると指摘した。また、この体勢による姦淫は不可能ではないにしても容易でなく、姦淫が行われたこと自体疑わしいと指摘した。加えて、Yの膣液からはXの精液の混在は認められず、膣等に傷ができているなどの無理矢理姦淫されたことを裏付ける証拠もなかった。また、Yは強姦されて破れてしまったパンストをコンビニのゴミ箱に捨てた後、新しいパンストを購入したと述べたが、この点に関する詳細が一審・ニ審で変遷しており、一連の供述からも姦淫行為があったとするには疑義があると結論付けている。
他方、Xは本事件に関して、金銭報酬を条件にYにの同意を得て現場に一緒に行き、手淫をしてもらって射精したと供述する。Xはまた日頃からそのような行為にしばしば及んでいたと述べ、事実足立区でも同様の事件を起こしており、ケータイにもそのような機会に撮影した写真が相当数存在することを考慮すると、被告人の供述はたやすく排斥できないと述べた。
以上から、上記のような諸事情を適切に考察することなくYの供述を全面的に信用した一審・ニ審判決は、経験則に照らして不合理であり、是認することができない。Xが犯行を行ったと断定するには、なお合理的な疑いが残り、犯罪の証明が十分でないものといわざるを得ない、としてXに無罪を言い渡した。
【須藤裁判官の補足意見】
気になった点のみ抜粋します。全文は判決文を参照下さい。
男性Xがそれまでに行っていた手口は、金銭報酬を支払うことを装って女性を誘い込むというものである。一方で、容易に助けを求められるような路上において、女性Yを威圧して連行するという手口はリスクが大きい。経験則上、より安全な手法とリスクの大きい手法がある場合、人は特段の事情が無い限りリスクの大きい手法を取ると考えにくい。するとYの証言の信用性には疑問を抱かざるを得ない。
書面による間接的な審理を行うだけの最高裁が、供述の信用性や事実認定の当否に介入することは基本的に慎重であるべきだろう。だが、最高裁は最終審であり、犯罪を犯していない被告人を救済する最後の砦である。犯罪を犯した者を犯罪者としないことは疑いもなく不正義である。だが、犯罪を犯していない者を犯罪者とすることは、人権侵害であり、許され得ない不正義にあたる。本件犯罪事実について合理的な疑いを超えた証明がなされたといえない以上、「疑わしきは被告人の利益に」の鉄則に戻るべきである。
【千葉裁判官の補足意見】
長いですが、なかなか興味深い内容です。全文は判決文を参照下さい。
一般に、被害者の供述はそれが狂言でない限り、被害体験に基づくものとして迫真性を有することが多いが、そのことから被害者の供述であるというだけで信用できるという先入観を持ち得る。他方、被告人の弁解は、嫌疑を晴らしたいという心情からされるため、一般には疑わしいという先入観を持ち得る。すると信用性の判断を誤るおそれがあり、信用性の評価に際しては留意すべきである。
刑事裁判の使命は、証拠を的確に評価し、適切な事実認定を行うことである。自己独自の知見で不十分・不完全な証拠をつなぎ合わせ、犯罪の成立を肯定する方向で犯罪の事実認定を行うべきではない。
一般に、女性が男性に威圧されて恐怖心に支配されることはあり得るものの、Yが当時の状況において叫んだり、助けを呼ぶこともなく、逃げ出したりもしていないことには疑問がある。Yは18歳で若年だが、当時、キャバクラで勤務しており、それなりの社会経験を有し、若年であることを過度に重視すべきでない。Xが日常的な会話をしていたところから突然「ついてこないと殺すぞ」などと言い出したことも唐突な感じがある。Xは、JR千葉駅での仕事を終えてから帰社するまでの間に行為に及んだことになるが、合意による手淫なら別であるが、強姦といった大きな犯行までやり遂げるには時間があまりにも足りない気がする。
YはXに無理矢理姦淫されたとし、当初警察取り調べでは挿入時間を10分と供述したが、長すぎたと感じたためか、検察官の取り調べでは3~4分間と供述変えている。しかも、膣液に精液が混在しているとか、膣に傷もあるといった客観的証拠は存在しない。客観的証拠が全く存在しない以上、それでも姦淫を認めるためには、信用性を有する他の十分な証拠の存在が強く要請される。
重要な事実として、Yはパンストを無理矢理脱がされて破れたのでコンビニのゴミ箱に捨てたと供述している。これは強姦の決め手にもなり得る重要な点であるが、そのパンストは事件直後の捜査でも発見されなかった。
Yは代わりのパンストをコンビニで買ったと述べるが、その時に一緒に買ったものについて供述が変遷している。すると、破れたパンストを捨てたとする供述も疑わしいということになる。
Yはキャバレーに戻り、従業員から泣いていた理由を問われれると「やられた」と応えたと供述している。しかしこれだけで強姦の被害を表すものと断定できない。被告Xが供述するように、報酬3万円を条件に嫌々手淫をさせられ、その挙げ句報酬を支払わずに逃げられた、そのことをもってYは「やられた」と応えたのだと推察もされ得る。
被告Xは、捜査段階から1審にかけて、不自然という指摘に対して相応に供述を変遷させており、その意味では、姑息で場当たり的で真摯な態度とは到底言い難い。
しかし被告は、報酬を条件に手淫してもらうという行為を繰り返し、ケータイにもその証拠と思われる画像が多数あり、被告はその方向の嗜好を強く有する者と推察され、本件も強姦ではなくこれらと同様の行為だとする弁解も、むげに排斥することはできないところである。
Yの供述内容が一貫している等の理由でその信用性を肯定し、決め手となる証拠も提出されていないのに、被告人の弁解を排斥して強姦の犯罪事実を認定することは、「合理的な疑いを超えた証明」の点から大いに問題があるといわなければならない。
【古田裁判官の反対意見】
本件において原判断の証拠評価及びこれに基づく認定に経験則に照らして不合理はなく、上告を棄却すべきものと考える。
通行人が相当数ある路上での脅迫・暴行が行われるのもまれではない。性犯罪の被害者(多くの場合女性)が、突然態度を豹変させて威圧する相手に対して恐怖を感じ、パニックに陥るのはよくあることである。そうなれば、警察官がすぐ近くにいても助けを求めることができないのも珍しいことではない。また、この種の犯罪では、通行人もよほどの異常を感じない限り、男女間の問題として見ないふりをすることが多い。
女性が抵抗できないことは不自然ではないとした上で、Yがされた姦淫の方法は立位のそれとして代表的であり、身長差についてもパンプスが脱げていたことや、壁にもたれかかる姿勢を取らされていたことを考えれば不自然ではない。
膣内から精液が検出されていないのは、膣内で射精していなければむしろ当然である。そのような場合でも精液が検出されることは当然あるが、検出されないことが不自然という法医学上の知見は承知しない。外傷についても、被告にされるがままになっていれば顕著な傷害が生じる可能性は考えられない。姦淫行為があった客観的証拠はないが、それ自体不自然なことではなく、Yの供述が不自然という理由にはならない。
ゴミ箱からパンストが発見されないのはどの段階でゴミ箱が捜査したかにもより、コンビニでパンストだけを買ったのか他にも何か買ったのかはショックを受けて明瞭に供述できなくなっても不自然でない。
多数意見は被告Xの供述を一概に否定しないが、Xの供述は、Yに対する報酬の支払いに関してなど、重要な点で変遷している。Xは状況を見ながら弁解を転々と変更している様子が顕著に伺え、その供述に信をおくことはできない。
【判決の影響】
2009年4月14日、防衛医大教授が電車内で痴漢行為を行ったとされる事件の最高裁判決が出された。この事件も一審・ニ審で有罪判決だったが、最高裁では被害者供述の信用性が否定されて無罪判決となり、痴漢行為が「冤罪」であったと認定されたものである。この事件の最高裁判決における補足意見は、本事件の最高裁判決でも言及されている。
性犯罪に苦しんでいる被害者は多くいるが、一方的な証言によって多くの冤罪が生み出されているのもまた事実。千葉裁判長が指摘するように先入観は排除し、審理には慎重でなければならない。その意味で上記事件と本事件は重要な判例となるだろう。
筆者の個人的意見ですが、反対意見を書いた古田裁判官は検察出身であり、その経歴が意見に反映されているような印象があります…。
【裁判官情報】
千葉 勝美(ちば かつみ)
本事件の裁判長。1946年生まれ。2009年12月より最高裁判事。2016年8月定年退官。
古田 佑紀(ふるた ゆうき)
1942年生まれ。検察出身。2005年8月より最高裁判事。2012年4月定年退官。
竹内 行夫(たけうち ゆきお)
1943年生まれ。外務省出身。2008年10月より最高裁判事。2013年7月定年退官。
須藤 正彦(すどう まさひこ)
1942年生まれ。弁護士出身。2009年12月より最高裁判事。2012年12月定年退官。
【判決文】
最高裁平成22年(あ)第509号