2001年1月17日午前3時頃、広島県広島市西区の住宅より出火。この家に住む女性A(当時53歳)と、女児B(8歳)、女児C(6歳)が遺体で発見される。Aの娘である女性D(28歳)は就寝中であったが、火災に気づいて退避して無事であった。Aの気道内に煤がなく、何者かに殺害された後に火をつけられたことが判明する。遺体の状況からAは絞殺されたと判断。放火殺人事件として捜査が開始される。
事件から5年が過ぎた2006年、妻と共に児童扶養手当詐欺を犯したとして、BとCの父親でありAの息子である男性Xが逮捕される。男性Xは事件発生当初より放火殺人への関与を疑われ、これを否認し続けていたが、詐欺事件の取り調べの中で自ら犯行を自供するに至った。しかし公判では再度否認に転じる。
【Xという男の生活】
2000年4月までに男性Xは女性Yと結婚して子どもを儲けていた。しかし女性Yは、Xの前妻の連れ子である女児B・Cとの共同生活に耐えられないとしてXを含めた3人とも自宅から追い出してしまった。
Xは収入に乏しく、借金が300万円もあった。返済金は毎月20万円にも達したという。そのような中で愛する女性の家から追い出されてしまってはもうどうにも行き場も無い。娘であるBとCは実母Aと妹Dの元に預けることにしたものの、実家にX自身の居場所は無かった。
Xは家族の目を避けるようにして生活する。すなわちAとDが自ら経営する喫茶店で働いているときはAの家で過ごし、AとDが帰宅すると入れ替わるようにして喫茶店で過ごした。Aが喫茶店に向かってDが家にいるようなときは、車でキャンプ場に向かってそのまま車の中で過ごすなどした。
一方でXとYは2000年5月に離婚したものの、その後も交際を続けていた。2000年11月から12月にかけて一時的に同居したが、その間にYは妊娠している。
【取り調べと捜査】
火災発生の数時間後、Xは警察に出頭して取り調べを受けた。Xは事件への関与を否認。2週間後には事件当日の衣類を提出するように求められ、これを提出。この衣類は鑑定により灯油成分が検出されなかったことを確認している。1ヶ月後にはポリグラフ検査も実施。当初は激しく拒絶したものの、妹Dの説得もあって受け入れた。しかし事件への関与を否認するのは変わらなかった。
警察は、火災現場が閑静な新興住宅街であり、住人とその関係者以外が日常的に往来することなく、また2階で寝ていたDが物音で目を覚ますことがなかったことと併せて、A宅内部をよく知っている内部関係者の犯行であると推理する。
さらに、前日まで台所にあったファンヒーターが居間の方へ5メートルほど移動されており、加えて1日にたばこ2箱を吸うほどのヘビースモーカーであるAに寝たばこの習慣が無かったにも関わらず、Aが吸う銘柄のたばこと灰皿がやはり普段は台所の方にあるべきところ居間で発見されている。これについて放火ではなく失火を装うことで利が得られる人物が現場偽装したのだと考えた。
Xは、本件火災によりBとCの死亡共済金、Aの生命保険金、A宅の火災保険金等を受け取り、妹Dと折半した。これを使ってXは借金を返済し、更に2001年4月には自宅を購入。とうとう8月にはYとの再婚に至った。こうした事実から警察はXへの疑いを強めていく。
因みに金額に関しては、Aの生命保険金が約4100万円、BとCの死亡共済金が約800万円、Aの自動車保険金が約110万円、Aの火災保険契約や生命保険契約を含む総合保険金が約2300万円である。合計すると約7300万円で、折半の結果Xは4000万円ほどを手にしたという。
【児童扶養手当詐欺】
2006年5月22日、XはYと共に児童扶養手当詐欺事件により逮捕された。
児童扶養手当とは、父と生計を同じくしていない児童が育成される家庭の生活の安定のために、当該児童について支給されるものである。その受給要件とは「父母が婚姻を解消した児童」の母または養育者に支給されると定められている。ここでいう婚姻解消とは法律的な離婚だけでなく、事実婚関係も解消されていなくてはならないと解される。
これについて、XとYは法律的に離婚していたが事実婚関係は継続しており、本来児童扶養手当支給要件を満たさないにもかかわらず、婚姻関係は無いと区役所職員を欺いて手当を詐取したという容疑であった。
本記事ではこの容疑に関する仔細は省略するが、一審より「児童扶養手当の受給要件がなかったかは疑問」とされ、XとYによる詐欺と共謀は認められることなく、最終的には最高裁で無罪が確定している。要するに、Yと同居せず、資力も生活力もないXが、Yと子どもらの元を定期的に訪問していた、というだけでは事実婚にあると認められず、また生計を同じくしていたとも言えず、このような状況下で手当を支給しないのは法律の趣旨に反するということであった。詳細は高裁判決を参照のこと。
ただし妻Yは、自らの裁判において起訴事実を認めており、虚偽の現況届を提出して児童扶養手当を騙し取ったとして、2006年8月7日の広島地裁で懲役2年・執行猶予4年の判決が言い渡され、確定している。
【放火殺人事件の自白】
児童扶養手当詐欺事件によりYと共に逮捕されたXは、2006年6月12日に放火殺人事件に関して初めて自白した。放火殺人事件での逮捕、放火殺人事件に基づく保険金詐欺についての取り調べに至るまで、Xはその自白を維持したという。
Xによる動機は以下の通り。すなわち、Y宅を追い出されていたからというもの絶望して自殺を考えていたが死にきれず、次に殺人事件を起こして死刑になろうと思った。しかし自分が死刑になれば母Aが悲しむからAを殺して放火して死刑になろうとした。その計画を実行するかどうか迷っていたところYとの一時同居を経て、今度はやり直せるかもしれないと思い、そのためには自分の借金を解決する必要があり、失火に見せかけてGを殺害して保険金を手に入れようとした、という筋である。妹Dと娘B・Cが火事から逃げ遅れれば死ぬと理解していたが、そうなっても仕方がないと思ったというものである。
犯行当日の行動については以下の通り述べた。1月17日の午前2時30分頃、喫茶店からA宅へ向かい、3時頃にA宅へ入って1階のベッドで寝ているAの首を両手で絞めて殺害。Aが「約束は…」と言ったあとでポタポタと液体が落ちる音が聞こえたので、XはAが失禁して死んだと考えた。そうして寝たばこによる失火と思わせるために現場を偽装。ファンヒーターなどを移動させるなどしてから、ポリタンクやファンヒーター内に残っていた灯油を撒き、灰皿にあった吸い殻にライターで点火。大きな炎が上がって動転して2階へ向かったが、我に返って玄関から飛び出し、そのまま車で逃走した、とのことであった。
こうした自白は捜査官だけでなく妹Dに対しても述べられた。Dが面会に訪れた際には「あの火災は事故ではなく僕がやった」、「差し入れの本を読んで自分から言う気になった」と語っている。Dに宛てた手紙にも「どんなことをしても許されることではない、私がどんな罰を受けてもDたちがこれから受ける苦難が取り払われることはない」、「やはり私は『極刑』になると思っています」などと書いていた。
【公判】
未明に発生した放火殺人事件ということで直接的な物証は少なく、Xの自白の信用性が主な争点となった。放火殺人により死刑を含めた重罰が科されると誰もが容易に予想できるところ、Xは任意に自白した上でそれを維持し、実妹との接見や手紙でも一貫してその自白を認めている。これをどう考えるべきか。
しかしXは公判になってから自白を撤回した。曰く、扶養手当詐欺事件に絡みYやその子を守るために、そういう考えから自白し、供述調書についても内容を気にせず署名指印したという。また実妹Dに対しては、Dの手紙に「ちゃんと反省してね」とか「償いの日々を送ってね」と書いてあるからその返事として書いたということだった。
また、取り調べをした警部補による様々な恫喝行為があったとして、そのような取り調べの下で行われた自白に信用性はないと主張した。
検察は「明らかに保険金目的の殺人」として死刑を求刑。弁護側は無罪を主張した。
【地裁判決】
2007年11月28日、広島地裁判決。無罪判決。
Xの自白に関しては、取調べをした警部補が机を叩いて威圧したこと、Yを再逮捕すると脅すような言動があったこと、それら取り調べに対する不満をXが訴えていたことからすれば、Xの供述調書に記載された動機は説得的とはいえないとした。検察官は机を叩いたり怒鳴ったことによって警部補がXに対して人間として向き合っていることが分かり、信頼関係が形成されていたなどと主張するも、判決は、捜査官と被疑者という明らかに優劣のある関係において、劣位のある者に対して机を叩いたり怒鳴ったりすることによって信頼関係が築けるのか疑問を呈した。
また妹Dに対する自白に関しても、Xに対して当日突然Dが面会に来ることが知らされたこと、調書と面会で述べた自白の動機に差異があり、この接見は捜査官側のコントロールの下でなされた疑いがあるとした。同じ部屋にいる警察官がDと会話を聞いているとXが意識しており、やや作り話めいた動機は、Xが真実を告白したとは直ちに断定できないと結論づけた。
他に、放火殺人の際のA宅内での移動ルートについて、犯行直前直後の重要な時点でありながら供述に変遷が見られるとした。ただしこれについては高裁判決で、事件は5年前の出来事であるから、ルートに関する細かい変遷が看過できない不合理な内容ではないと指摘している。
検察側が控訴。
【高裁判決】
2009年12月14日、広島高裁判決。検察による控訴を棄却。
まず状況証拠について、放火殺人はA宅の事情を知る内部関係者しかあり得ないという検察の主張について、その可能性は否定できないとしつつ、事件当日のA宅の玄関が施錠されていたということは証明されておらず、第三者が不法侵入した可能性も合理的疑いなく否定できないとした。また、A宅内を知らなければ移動は困難であったとする主張も、照明をつけた可能性もあり得るし、Dが脱出で手一杯な状態になるまで目を覚まさなかったことを考えれば、Dを起こすことなく犯行を行えるのは内部関係者しかいないという決めつけは無理があるとされた。現場偽装やXによる保険金の使用についても、推認に推認を重ねた嫌疑に過ぎず、刑事裁判において被告人以外の犯人の存在を否定するに十分などといえるものではないと断じた。
Xによる一連の自白について、本件放火殺人事件をしていないのであるとすれば、なぜそのような言動をしたのか理解に苦しむとし、それに対するXの説明も説得力に乏しく、にわかに首肯し難いとした。一方で、自白の内容自体に対する「看過できない疑問」は解消されていないとした。
高裁が疑問視した点は地裁とはいくらか相違しており、一つは保険金目的で殺人を敢行しようとしながら、Xの保険契約に関する認識に明らかに不自然かつ不合理な点があることを指摘した。すなわち、XはAは生命保険に入っているのではないか、入っていれば受取人は自分に違いないし、1000万円くらいの保険金が出るだろう、という程度の認識しかなく、実際に保険証書を見て保険の内容を確認しようとしていなかった。保険金目当てに放火殺人を犯す人間が保険金の内容を知ろうとしなかったのは不自然かつ不合理ということである。更に自殺願望が死刑願望に変わり、次いで一転して保険金取得目的に変わった動機形成過程にも疑問を呈した。
二つ目に、衣服やXの車内を含め灯油成分が検出されたことを示す証拠が無く、自白内容に基づけば痕跡は発見されるべきであり、客観的証拠に裏付けられた現場状況と重大な矛盾が生じるとした。すなわち5リットル近い灯油を居間に撒いたにも関わらずXの衣類からは灯油の痕跡が発見されず、灯油がついた手で長時間握ったであろう車のハンドルからも痕跡は発見されず、事件当日午後の時点で調べた警察官は灯油の臭いにも気づかなかったのである。
以上から、自白の信用性に疑問を抱かせる事情の判断に関して地裁と必ずしも同一では無かったものの、いずれにせよ地裁の無罪判決は維持された。言うまでもなく保険金詐欺事件についても無罪を維持した。検察側が上告。
【最高裁判決】
2012年2月22日、最高裁決定。上告棄却。Xの無罪が確定。
Xの自白にはその信用性を高める複数の事情が認められ、本件放火殺人事件の犯人がXである疑いは濃いというべきである、とされた。一方で高裁と同様にして、保険金に関する認識と動機形成過程、衣類や車両から灯油の痕跡が発見されなかったこと、について不自然かつ不合理な点が残るとした。
保険金に関しては、Aが生命保険契約を締結する際にXも保険会社の外交員と面談したこと、他人が契約した生命保険について保険会社から教えてもらうことができないこと、X自らが保険証書を探そうとすればAから怪しまれることなどからXが保険の詳細を知らなかったのは不自然ではないとみる余地があるとした。しかし、これはそのようにみる余地や可能性があるというだけであり、やはり保険について漠然とした認識のまま、入るかどうか定かではない生命保険金目当てに実母の殺害に及ぶか疑問と結論付けた。
灯油の痕跡については、衣類に灯油がかかったり灯油を撒いた箇所を踏んで靴下に灯油が染み込んだりしないように細心の注意を払ったことや、犯行後に手について灯油の臭いが気になり2箇所で手を洗ったと供述していることから、灯油成分が検出されないことを示す証拠が無いことが特に不自然でないという見方ができないわけではないとした。しかし、これもまたそのようにみる余地や可能性があるというだけで、自動車のハンドルから痕跡が見つからなかったことの不自然さは否定しきれないと結論づけた。
【結末】
新聞報道によれば、1978年以降で死刑求刑事件で一審・二審とも無罪判決は本事件が3件目とのこと。過去の事件は二審で確定しており、三審すべて無罪判決は本事件が初となる。弁護側は、一・ニ審が無罪で上告理由がないにもかかわらず検察が上告し、約2年間裁判を引き伸ばしたことを批判した。児童扶養手当詐欺に関しても別件逮捕ではないかとの指摘がある。
Xの無罪は確定し、「冤罪」は晴らされた。しかしA・B・Cを殺害した犯人は特定されないままである。幼いBとCの命はあまりにも酷い形で奪われた。逃げ遅れればDも死んでいたかもしれない。Aさんは絞殺されており、彼女に対して特に明確な殺意があったことは間違いない。誰が何のために。すべての真相は闇の中である。
【判決文】
裁判所ウェブサイトで参照可能。
高裁判決 広島高裁平成19年(う)第244号
最高裁判決 最高裁平成22年(あ)第174号
【出典】
産経ニュース2007年11月28日「広島市の放火殺人 死刑求刑の男に無罪」
産経ニュース2007年11月28日「客観証拠の重要性増す 広島市の放火殺人無罪判決」
産経ニュース2007年11月28日「被告は表情変えず 広島の放火殺人無罪判決」
毎日新聞2012年2月25日「広島の殺人放火:母娘3人殺害、無罪確定へ 「疑い濃い」異例の言及--最高裁上告棄却」
事件から5年が過ぎた2006年、妻と共に児童扶養手当詐欺を犯したとして、BとCの父親でありAの息子である男性Xが逮捕される。男性Xは事件発生当初より放火殺人への関与を疑われ、これを否認し続けていたが、詐欺事件の取り調べの中で自ら犯行を自供するに至った。しかし公判では再度否認に転じる。
【Xという男の生活】
2000年4月までに男性Xは女性Yと結婚して子どもを儲けていた。しかし女性Yは、Xの前妻の連れ子である女児B・Cとの共同生活に耐えられないとしてXを含めた3人とも自宅から追い出してしまった。
Xは収入に乏しく、借金が300万円もあった。返済金は毎月20万円にも達したという。そのような中で愛する女性の家から追い出されてしまってはもうどうにも行き場も無い。娘であるBとCは実母Aと妹Dの元に預けることにしたものの、実家にX自身の居場所は無かった。
Xは家族の目を避けるようにして生活する。すなわちAとDが自ら経営する喫茶店で働いているときはAの家で過ごし、AとDが帰宅すると入れ替わるようにして喫茶店で過ごした。Aが喫茶店に向かってDが家にいるようなときは、車でキャンプ場に向かってそのまま車の中で過ごすなどした。
一方でXとYは2000年5月に離婚したものの、その後も交際を続けていた。2000年11月から12月にかけて一時的に同居したが、その間にYは妊娠している。
【取り調べと捜査】
火災発生の数時間後、Xは警察に出頭して取り調べを受けた。Xは事件への関与を否認。2週間後には事件当日の衣類を提出するように求められ、これを提出。この衣類は鑑定により灯油成分が検出されなかったことを確認している。1ヶ月後にはポリグラフ検査も実施。当初は激しく拒絶したものの、妹Dの説得もあって受け入れた。しかし事件への関与を否認するのは変わらなかった。
警察は、火災現場が閑静な新興住宅街であり、住人とその関係者以外が日常的に往来することなく、また2階で寝ていたDが物音で目を覚ますことがなかったことと併せて、A宅内部をよく知っている内部関係者の犯行であると推理する。
さらに、前日まで台所にあったファンヒーターが居間の方へ5メートルほど移動されており、加えて1日にたばこ2箱を吸うほどのヘビースモーカーであるAに寝たばこの習慣が無かったにも関わらず、Aが吸う銘柄のたばこと灰皿がやはり普段は台所の方にあるべきところ居間で発見されている。これについて放火ではなく失火を装うことで利が得られる人物が現場偽装したのだと考えた。
Xは、本件火災によりBとCの死亡共済金、Aの生命保険金、A宅の火災保険金等を受け取り、妹Dと折半した。これを使ってXは借金を返済し、更に2001年4月には自宅を購入。とうとう8月にはYとの再婚に至った。こうした事実から警察はXへの疑いを強めていく。
因みに金額に関しては、Aの生命保険金が約4100万円、BとCの死亡共済金が約800万円、Aの自動車保険金が約110万円、Aの火災保険契約や生命保険契約を含む総合保険金が約2300万円である。合計すると約7300万円で、折半の結果Xは4000万円ほどを手にしたという。
【児童扶養手当詐欺】
2006年5月22日、XはYと共に児童扶養手当詐欺事件により逮捕された。
児童扶養手当とは、父と生計を同じくしていない児童が育成される家庭の生活の安定のために、当該児童について支給されるものである。その受給要件とは「父母が婚姻を解消した児童」の母または養育者に支給されると定められている。ここでいう婚姻解消とは法律的な離婚だけでなく、事実婚関係も解消されていなくてはならないと解される。
これについて、XとYは法律的に離婚していたが事実婚関係は継続しており、本来児童扶養手当支給要件を満たさないにもかかわらず、婚姻関係は無いと区役所職員を欺いて手当を詐取したという容疑であった。
本記事ではこの容疑に関する仔細は省略するが、一審より「児童扶養手当の受給要件がなかったかは疑問」とされ、XとYによる詐欺と共謀は認められることなく、最終的には最高裁で無罪が確定している。要するに、Yと同居せず、資力も生活力もないXが、Yと子どもらの元を定期的に訪問していた、というだけでは事実婚にあると認められず、また生計を同じくしていたとも言えず、このような状況下で手当を支給しないのは法律の趣旨に反するということであった。詳細は高裁判決を参照のこと。
ただし妻Yは、自らの裁判において起訴事実を認めており、虚偽の現況届を提出して児童扶養手当を騙し取ったとして、2006年8月7日の広島地裁で懲役2年・執行猶予4年の判決が言い渡され、確定している。
【放火殺人事件の自白】
児童扶養手当詐欺事件によりYと共に逮捕されたXは、2006年6月12日に放火殺人事件に関して初めて自白した。放火殺人事件での逮捕、放火殺人事件に基づく保険金詐欺についての取り調べに至るまで、Xはその自白を維持したという。
Xによる動機は以下の通り。すなわち、Y宅を追い出されていたからというもの絶望して自殺を考えていたが死にきれず、次に殺人事件を起こして死刑になろうと思った。しかし自分が死刑になれば母Aが悲しむからAを殺して放火して死刑になろうとした。その計画を実行するかどうか迷っていたところYとの一時同居を経て、今度はやり直せるかもしれないと思い、そのためには自分の借金を解決する必要があり、失火に見せかけてGを殺害して保険金を手に入れようとした、という筋である。妹Dと娘B・Cが火事から逃げ遅れれば死ぬと理解していたが、そうなっても仕方がないと思ったというものである。
犯行当日の行動については以下の通り述べた。1月17日の午前2時30分頃、喫茶店からA宅へ向かい、3時頃にA宅へ入って1階のベッドで寝ているAの首を両手で絞めて殺害。Aが「約束は…」と言ったあとでポタポタと液体が落ちる音が聞こえたので、XはAが失禁して死んだと考えた。そうして寝たばこによる失火と思わせるために現場を偽装。ファンヒーターなどを移動させるなどしてから、ポリタンクやファンヒーター内に残っていた灯油を撒き、灰皿にあった吸い殻にライターで点火。大きな炎が上がって動転して2階へ向かったが、我に返って玄関から飛び出し、そのまま車で逃走した、とのことであった。
こうした自白は捜査官だけでなく妹Dに対しても述べられた。Dが面会に訪れた際には「あの火災は事故ではなく僕がやった」、「差し入れの本を読んで自分から言う気になった」と語っている。Dに宛てた手紙にも「どんなことをしても許されることではない、私がどんな罰を受けてもDたちがこれから受ける苦難が取り払われることはない」、「やはり私は『極刑』になると思っています」などと書いていた。
【公判】
未明に発生した放火殺人事件ということで直接的な物証は少なく、Xの自白の信用性が主な争点となった。放火殺人により死刑を含めた重罰が科されると誰もが容易に予想できるところ、Xは任意に自白した上でそれを維持し、実妹との接見や手紙でも一貫してその自白を認めている。これをどう考えるべきか。
しかしXは公判になってから自白を撤回した。曰く、扶養手当詐欺事件に絡みYやその子を守るために、そういう考えから自白し、供述調書についても内容を気にせず署名指印したという。また実妹Dに対しては、Dの手紙に「ちゃんと反省してね」とか「償いの日々を送ってね」と書いてあるからその返事として書いたということだった。
また、取り調べをした警部補による様々な恫喝行為があったとして、そのような取り調べの下で行われた自白に信用性はないと主張した。
検察は「明らかに保険金目的の殺人」として死刑を求刑。弁護側は無罪を主張した。
【地裁判決】
2007年11月28日、広島地裁判決。無罪判決。
Xの自白に関しては、取調べをした警部補が机を叩いて威圧したこと、Yを再逮捕すると脅すような言動があったこと、それら取り調べに対する不満をXが訴えていたことからすれば、Xの供述調書に記載された動機は説得的とはいえないとした。検察官は机を叩いたり怒鳴ったことによって警部補がXに対して人間として向き合っていることが分かり、信頼関係が形成されていたなどと主張するも、判決は、捜査官と被疑者という明らかに優劣のある関係において、劣位のある者に対して机を叩いたり怒鳴ったりすることによって信頼関係が築けるのか疑問を呈した。
また妹Dに対する自白に関しても、Xに対して当日突然Dが面会に来ることが知らされたこと、調書と面会で述べた自白の動機に差異があり、この接見は捜査官側のコントロールの下でなされた疑いがあるとした。同じ部屋にいる警察官がDと会話を聞いているとXが意識しており、やや作り話めいた動機は、Xが真実を告白したとは直ちに断定できないと結論づけた。
他に、放火殺人の際のA宅内での移動ルートについて、犯行直前直後の重要な時点でありながら供述に変遷が見られるとした。ただしこれについては高裁判決で、事件は5年前の出来事であるから、ルートに関する細かい変遷が看過できない不合理な内容ではないと指摘している。
検察側が控訴。
【高裁判決】
2009年12月14日、広島高裁判決。検察による控訴を棄却。
まず状況証拠について、放火殺人はA宅の事情を知る内部関係者しかあり得ないという検察の主張について、その可能性は否定できないとしつつ、事件当日のA宅の玄関が施錠されていたということは証明されておらず、第三者が不法侵入した可能性も合理的疑いなく否定できないとした。また、A宅内を知らなければ移動は困難であったとする主張も、照明をつけた可能性もあり得るし、Dが脱出で手一杯な状態になるまで目を覚まさなかったことを考えれば、Dを起こすことなく犯行を行えるのは内部関係者しかいないという決めつけは無理があるとされた。現場偽装やXによる保険金の使用についても、推認に推認を重ねた嫌疑に過ぎず、刑事裁判において被告人以外の犯人の存在を否定するに十分などといえるものではないと断じた。
Xによる一連の自白について、本件放火殺人事件をしていないのであるとすれば、なぜそのような言動をしたのか理解に苦しむとし、それに対するXの説明も説得力に乏しく、にわかに首肯し難いとした。一方で、自白の内容自体に対する「看過できない疑問」は解消されていないとした。
高裁が疑問視した点は地裁とはいくらか相違しており、一つは保険金目的で殺人を敢行しようとしながら、Xの保険契約に関する認識に明らかに不自然かつ不合理な点があることを指摘した。すなわち、XはAは生命保険に入っているのではないか、入っていれば受取人は自分に違いないし、1000万円くらいの保険金が出るだろう、という程度の認識しかなく、実際に保険証書を見て保険の内容を確認しようとしていなかった。保険金目当てに放火殺人を犯す人間が保険金の内容を知ろうとしなかったのは不自然かつ不合理ということである。更に自殺願望が死刑願望に変わり、次いで一転して保険金取得目的に変わった動機形成過程にも疑問を呈した。
二つ目に、衣服やXの車内を含め灯油成分が検出されたことを示す証拠が無く、自白内容に基づけば痕跡は発見されるべきであり、客観的証拠に裏付けられた現場状況と重大な矛盾が生じるとした。すなわち5リットル近い灯油を居間に撒いたにも関わらずXの衣類からは灯油の痕跡が発見されず、灯油がついた手で長時間握ったであろう車のハンドルからも痕跡は発見されず、事件当日午後の時点で調べた警察官は灯油の臭いにも気づかなかったのである。
以上から、自白の信用性に疑問を抱かせる事情の判断に関して地裁と必ずしも同一では無かったものの、いずれにせよ地裁の無罪判決は維持された。言うまでもなく保険金詐欺事件についても無罪を維持した。検察側が上告。
【最高裁判決】
2012年2月22日、最高裁決定。上告棄却。Xの無罪が確定。
Xの自白にはその信用性を高める複数の事情が認められ、本件放火殺人事件の犯人がXである疑いは濃いというべきである、とされた。一方で高裁と同様にして、保険金に関する認識と動機形成過程、衣類や車両から灯油の痕跡が発見されなかったこと、について不自然かつ不合理な点が残るとした。
保険金に関しては、Aが生命保険契約を締結する際にXも保険会社の外交員と面談したこと、他人が契約した生命保険について保険会社から教えてもらうことができないこと、X自らが保険証書を探そうとすればAから怪しまれることなどからXが保険の詳細を知らなかったのは不自然ではないとみる余地があるとした。しかし、これはそのようにみる余地や可能性があるというだけであり、やはり保険について漠然とした認識のまま、入るかどうか定かではない生命保険金目当てに実母の殺害に及ぶか疑問と結論付けた。
灯油の痕跡については、衣類に灯油がかかったり灯油を撒いた箇所を踏んで靴下に灯油が染み込んだりしないように細心の注意を払ったことや、犯行後に手について灯油の臭いが気になり2箇所で手を洗ったと供述していることから、灯油成分が検出されないことを示す証拠が無いことが特に不自然でないという見方ができないわけではないとした。しかし、これもまたそのようにみる余地や可能性があるというだけで、自動車のハンドルから痕跡が見つからなかったことの不自然さは否定しきれないと結論づけた。
【結末】
新聞報道によれば、1978年以降で死刑求刑事件で一審・二審とも無罪判決は本事件が3件目とのこと。過去の事件は二審で確定しており、三審すべて無罪判決は本事件が初となる。弁護側は、一・ニ審が無罪で上告理由がないにもかかわらず検察が上告し、約2年間裁判を引き伸ばしたことを批判した。児童扶養手当詐欺に関しても別件逮捕ではないかとの指摘がある。
Xの無罪は確定し、「冤罪」は晴らされた。しかしA・B・Cを殺害した犯人は特定されないままである。幼いBとCの命はあまりにも酷い形で奪われた。逃げ遅れればDも死んでいたかもしれない。Aさんは絞殺されており、彼女に対して特に明確な殺意があったことは間違いない。誰が何のために。すべての真相は闇の中である。
【判決文】
裁判所ウェブサイトで参照可能。
高裁判決 広島高裁平成19年(う)第244号
最高裁判決 最高裁平成22年(あ)第174号
【出典】
産経ニュース2007年11月28日「広島市の放火殺人 死刑求刑の男に無罪」
産経ニュース2007年11月28日「客観証拠の重要性増す 広島市の放火殺人無罪判決」
産経ニュース2007年11月28日「被告は表情変えず 広島の放火殺人無罪判決」
毎日新聞2012年2月25日「広島の殺人放火:母娘3人殺害、無罪確定へ 「疑い濃い」異例の言及--最高裁上告棄却」