1974年8月28日、神奈川県平塚市の団地において、母娘3人が殺害される事件が発生した。加害者は階上の部屋に住む男。被害者宅のピアノや日曜大工の音に悩まされて犯行に及んだのだった。近隣住人との騒音トラブルが注目されるきっかけとなった事件である。

 一審は死刑判決。被告を支援する活動も行われたが、被告は「無期懲役になって音に苦しめられるより死刑がいい」と言って自ら控訴を取り下げるなどして死刑判決が確定。しかしその後40年以上も死刑は執行されないまま2020年まで至っている。男の年齢は既に90を超えた。冤罪の訴えが無い事件では極めて異例の存在である。

【男の平穏でない人生】
 加害者の男の名は大浜 松三。1928年生まれ。事件当時46歳。子供の頃は明るく活発的だったが、近所の吃音症の子どもの真似をしているうちに吃音症を発症。以後は暗く内向的な性格となってしまう。戦後は国鉄職員となるも、売上金を持ち逃げしたり、ひったくりをするなどトラブルを起こした。ひったくりの件では執行猶予付きの有罪判決を受けている。

 1959年に最初の結婚をするも1年もたずに離婚。この頃にはアパートの隣人とステレオの音でトラブルになった。大浜が隣人から注意を受けたとする情報と、大浜が隣人を注意したという情報があるが、いずれにせよ大浜はこの件以降人一倍音に関して敏感になる。アパートの子どもたちの遊び声をうるさいと叱りつけたり、よく吠える近所の飼い犬を殺したことさえあった。雀の鳴き声までも気にするほどだった。

 1965年に再婚。1967年頃には大浜が八王子市内の会社に就職。社員寮に入り、妻はその社員寮の管理人として働いた。しかしここでも大浜は寮生の話し声や麻雀の音をきっかけにトラブルを起こし、68年には退職した。そして1970年からは事件の起こった神奈川県平塚市の団地へ引っ越すことになる。

【団地生活】
 1970年4月、大浜夫妻は神奈川県営横内団地34号棟403号室に入居した。やはり騒音には敏感で、テレビを観るときにもイヤホンをしていた。

 6月に階下の306号室に被害者一家(父親・母親・長女・次女の4人家族)が引っ越してくる。引越しの挨拶が無かったことで大浜は一家に悪印象をもつ。そして一家が日曜大工を始めると金槌の音が響いた。大浜は階下へ怒鳴りに行ったこともあったが、一家はあまり気にしない風だったという。大浜はベランダのサッシ戸の開閉音をも気にしていた。

 1973年11月に被害者一家がピアノを購入。長女は小学校から帰ってくると毎日のようにピアノを弾いた。団地では他にもピアノをもつ家庭があったため、弾く時間帯などルールが決められた。しかしこの頃の大浜は失業して一日中家にいたため、いずれにせよピアノの音を聴き続ける羽目になってしまった。

 騒音に苦しみ続ける大浜は八つ当たりに妻へ暴力へ振るうことがあった。妻は離婚するつもりで実家へ帰ってしまった。もはや大浜に就業意欲は無く、家賃を滞納するようになる。ピアノの音から逃れるべく近所の図書館へ行ったり釣りに行ったりして気を紛らせていたが、夏休みが始まって子どもたちが遊ぶようになると憩いの場所は無くなった。そして遂に1974年8月を迎える。

【真夏の朝の凶行】
 大浜は完全に追い詰められていた。知人に対しては「死にたい」と語ったが、死ぬ前に自分を苦しめた人間に復讐をしなければならないと決心する。これは階下の一家だけでなく、10年以上前に住んでいたアパートでトラブルになった女性まで含まれていた。事件の一週間前には凶器となる刺身包丁を購入している。そしてかつて隣人だった女性の転居先まで突き止めたが、結局様々な状況が重なって彼女の殺害は断念した。結果、復讐の標的は階下の一家に絞られた。

 8月28日、普段は9時から鳴り始めるピアノが、この日は朝の7時から鳴り出した。大浜はピアノの音で目を覚ます。もう限界だった。9時20分過ぎ、一家の父親が出勤し、母親がゴミ捨てに出た。それを確認した大浜は被害者宅へ乗り込む。

 大浜はピアノを弾いていた長女(8歳)、次に傍にいた次女(4歳)を刺殺した。そしてマジックを手に取ると襖に殴り書きした。「迷惑をかけているんだからスミマセンの一言位言え。気分の問題だ。来たときアイサツにこないし、しかも馬鹿づらしてガンをとばすとは何事だ。人間、殺人鬼にはなれないものだ」そこまで書いたところで母親が戻ってきたため、母親も胸を刺して殺害した。

 3人を殺害した大浜はバイクで逃走する。

【逮捕・起訴】
 大浜が被害者宅で長女・次女を殺害しているとき、隣室から「男が暴れている」と110番通報がされていた。警察が駆けつけたときに既に3人は殺害されていたが、返り血を浴びた大浜がバイクに乗って逃走するところが住人に目撃されており、直ちに指名手配された。

 知人の証言から大浜が自殺する虞れもあったため大規模な捜査が開始されたが、8月31日に「死にきれなかった」大浜が自ら警察に出頭してきた。なお、大浜は逃走中に服を変えるために民家での窃盗を3件起こしている。

 1974年9月20日、横浜地検は大浜を殺人・窃盗罪で起訴。

【公判】
 公判では大浜に対する精神鑑定が実施された。鑑定結果は「精神病質に該当するが、狭義の心神喪失・心神耗弱ではなく、責任能力はある」ということだった。

 騒音の程度を確認すべく検察側は実際に騒音の計測を行った。その計測によれば被害者宅からのピアノの音は「環境基準値内」だった。しかしこれは限定的な条件で実施された計測であり、実態を反映していないという批判もある。弁護側からは大浜の妻が出廷し「被害者宅のピアノは自分にも度が過ぎて聞こえていた、大浜が帰宅すると狙ったかのようにピアノが鳴り出すことがあった」と証言している。事件直後から大浜への支援を表明した「騒音被害者の会」代表も出廷し、大浜に同情する意見が多く嘆願書も集まっている旨を述べた。

 しかし当の大浜自身の気持ちは全く異なるものだった。捜査段階では「被害者一家の父親に襲われるかもしれないと思ってやった、被害者には申し訳ないと思う」と述べていたが、一転して「死刑になりたくてやった、被害者に申し訳ないとは思わない」などと述べた。「騒音被害者の会」による嘆願書の提出も拒否した。

 1975年8月11日、論告求刑公判。検察は精神鑑定結果も踏まえて死刑を求刑した。
 
【判決】
 1975年10月20日、横浜地裁判決。死刑判決。

 責任能力については、「精神病質者でかつ音に対して過敏症であった」とされたものの、被害者一家の父親が出勤して不在になったところを見計らって犯行に及んだ点や、犯行後に自己の犯罪を正当化するためにメッセージを書き残した点などから、心神耗弱状態にあったとは見做されなかった。

 被害者宅の騒音についても環境基準値内であり、しかも早朝・深夜には発されていないとされた。被害者一家は被告の「音に極度の神経過敏」ということを知る由はなかった。被告から被害者に対して「ピアノを弾く時間を制限する」よう申し入れた際も、被害者がそれを拒否したと思われる事情はない。被害者への苦情申し入れもわずか一回であり、騒音問題を解決すべく対話するように努力した痕跡はなく、被害者を責める限りは同じく被告も責められなければならないとされた。

 その上で、被告は自らの取った態度を顧みずに被害者一家を一方的に責め、罪のない幼女2人までも計画的かつ残虐に殺害した、と断罪された。

【控訴取り下げへ】
 「死刑になりたい」と述べていた大浜はその発言どおりに死刑判決を受け入れ、控訴手続きを取ろうとしなかった。仕方なく弁護人が11月1日付けで控訴。大浜は不満だったが、弁護士はどうにか説得して控訴趣意書を書かせた。大浜による控訴趣意書は80枚にも及ぶものであったという。

 1976年5月11日、控訴審初公判。大浜は「騒音被害者の会」が推薦する弁護人を断ったため、国選弁護人がつくこととなった。裁判所は東京歯科大教授・中田修による精神鑑定の実施を命じた。

 中田による精神鑑定の結果は「被告は犯行当時パラノイア(偏執症)に罹患しており、妄想に基づいて殺人行為を実施した」というものだった。つまり責任能力は無いという結論である。この結果により、大浜は減刑あるいは無罪となる可能性も出てきた。

 しかし死刑を望む大浜は鑑定結果が提出される直前に控訴を一方的に取り下げてしまう。鑑定した中田や拘置所の職員までが説得したというが、大浜は聞く耳をもたなかった。取り下げを感知してなかった国選弁護人が慌てて大浜に面会すると、大浜は「これ以上音の苦しみに耐えられない、無期懲役と死刑ならば死刑がいい」などと述べた。

 国選弁護人は「被告による控訴取り下げは正常でない精神状態の下で行われており無効」とする上申書を提出した。1976年12月16日、高裁はこれを棄却することを決定。弁護人はそれに対して異議申し立てを行う。異例の展開であった。

 1977年4月11日、東京高裁は弁護人による異議申し立てを棄却し、大浜による控訴取り下げが有効となる。裁判所は「被告が自分の権利を守る能力を十分に有した上で出した結論であり法的に有効」であると結論づけた。弁護人は改めて大浜と面会するも、大浜に上告する意思は全く無かった。これにて死刑判決が確定。

【叶えられない望み】
 望みどおりに死刑判決を得た大浜であったが、その後はなんと40年以上にも渡って死刑が執行されない状態が続いている。長期収監死刑囚の大半は冤罪を訴えているが、大浜は再審請求や減刑嘆願等を行っているわけでもなく極めて異例の存在といえる。自ら死刑を望む人間に刑を執行することは躊躇われたか、あるいは精神病が深刻なためか。

 2020年7月1日時点の長期収監・高齢の確定死刑囚を以下に添付する。
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 大浜以前の存命死刑囚には「マルヨ無線強盗殺人放火事件」の尾田信夫がいるが、年齢は大浜の方が一回り以上上である。95歳で病死した「帝銀事件」の平沢貞通の年齢にも近づきつつある。なお、戦後最高齢の死刑執行例は「秋山兄弟事件」の秋山芳光で執行時77歳である。この点からも90歳を超えた大浜に今後死刑が執行されるとは考え難い。

 尾田は再審請求を続けていることもあり、極めて限定的ながらもその動静が伝えられることがある。しかし大浜の動静は全く不明である。控訴審の頃には隣の房の水洗便所の音にも苦しんでいたとされる。大浜は今何を思って生きているのか。最早正常な意思の疎通ができるか疑わしいが…。

【騒音問題】
 本事件について、日本を代表する音楽家である團伊玖磨は「日本の小さな部屋でピアノを弾いている情景は、正直判りやすく言えば、バスの中で大相撲を、銭湯の浴場でプロ野球を興行しようとする程の無茶で無理なことなのである」とコメントを残した。この事件の後、ピアノの消音・防音機構の研究開発が進んだ。電子ピアノも普及した。

 しかし21世紀に入ってからも騒音トラブルをきっかけにした殺傷事件は続いている。楽器に限らず、オーディオ、子どもの声、ペットの鳴き声など…。騒音を注意しに来た隣人を殺害したという事件もあった。2020年現在では「近隣にある保育園・幼稚園の子どもの声がうるさい」というトラブルが多く報道されている。

 様々な「音」をどのように感じるかはその人次第である。嫌がらせでわざと騒音を発している人もいれば、生活上避けられない物音にまで言いがかりをつけている人もいる。いずれにせよ事件が深刻化するのは当事者間のコミュニケーションが不足しているケースが大半だ。双方が歩み寄りの姿勢を見せること無く一方的な主張を続けていればいつか事件は起こる。それは正しく本事件の判決が指摘したとおりのことであろう。

【判決文】
 横浜地裁昭和49年(わ)第310号。
 また、控訴取下を有効とする東京高裁決定は裁判所ウェブサイトで参照可能。
 東京高裁昭和50年(う)第2621号。

【関連サイト】
 騒音問題総合研究所のサイトは以下。騒音訴訟や判例が紹介されている。
 https://nh-noiselabo.com/