1984年1月10日、北海道札幌市豊平区にて、城丸 秀徳くん(当時9歳、小学4年生)が何者かにより電話で呼び出されて家を出た後、行方不明になった。警察は重要参考人として女性Kをマークし、殺人罪としての時効が成立する1ヶ月前の1998年12月に遂に起訴する。しかし刑事裁判でKは只黙秘して何も語らず、そのまま無罪判決が下された。実質的に未解決事件。
【行方不明になった少年】
1984年1月10日午前9時35分頃、札幌市豊平区の城丸さん宅の電話が鳴った。当時小学4年生の秀徳くんが取り、親に代わることなくそのまま話し続けた。そして電話を終えた秀徳くんは「ワタナベさんのお母さんが僕の物を知らないうちに借りて、それを返したいと言っている。函館に行くと言っている。車で来るから道で渡してくれる。それを取りに行く」などと言いだした。
要領を得ない話に家族は混乱する。電話をしている秀徳くんは緊張していて家族には話を聞かれたくない風だったというから、秀徳くんは何か都合が悪いことがあって内容を誤魔化して家族に説明したのだと思われる。いずれにせよ秀徳くんは何者かに呼び出され、すぐに家を出ていった。心配になった母親は兄(当時12歳、小学6年生)について行かせたが途中で見失ってしまった。秀徳くんは兄がついてきていることに気づくと、走って振り切ったらしい。
兄が行方を見失った近くには「ワタナベ家」があった。城丸家がそのワタナベ家を訪ねてみるも、秀徳くんは来ておらず、また城丸家に電話もしていないとのことだった。
【最後の目撃証言】
警察の捜査が開始されるとすぐに目撃証言が得られた。行方を見失った近くのアパート「二楽荘」の2階に上がっていく秀徳くんを見たという。その二楽荘2階に住む女性K(当時29歳)は、「秀徳くんが『ワタナベさんの家を知りませんか』と尋ねてきたので、ワタナベさんの家は隣だよと教えた」と述べた。Kが教えたワタナベさんの家とは上述の「ワタナベ家」のことである。しかし「ワタナベ家」はやはり秀徳くんは家に来ていないと言い、任意の家宅捜査でも何らの証拠も発見されなかったため、Kの証言が秀徳くんの最後の目撃証言となった。
警察は身代金目的の誘拐の可能性も考慮したが、特に電話はかかってこない。1月14日より公開捜査に切り替えられるも、新たな目撃証言等は得られず。捜査はここで行き詰まってしまう。
【疑惑の女】
1987年12月30日午前3時頃、北海道樺戸郡新十津川町の農家で出火。火事によりWさん(当時36歳)が焼死した。Wさんは、Kと86年5月に結婚していた。Kにとっては2番目の夫である。
この火事には不審な点がいくつかあった。まず、深夜の火事であったにも関わらず、Kとその娘は着替えを万全に済ませて靴もちゃんと履いていた。さらに、Wさんには2億円近い生命保険がかけられており、Kは預金通帳や保険関係書類一式もしっかりと持ち出していた。農家のWさんと夜の街で生きてきたKの結婚生活をWさんの親族が心配していた最中での出来事だった。警察は放火の線で捜査したが、放火した証拠を見つけられず立件は断念。Kは保険金を請求したが、後に取り下げている。
火事から半年経った1988年6月19日、Wさんの親族が焼け残った納屋を整理していると不審なポリ袋を発見。中身は人の骨のようだった。警察によって「火葬された子どもの骨」ということが判明。城丸秀徳くんの骨と強く疑われたが、当時のDNA鑑定技術ではそこまで特定することはできなかった。
事情聴取を受けたKは、当初は「心を開く気持ちはある。だけど、今すぐは開けない。時期が来たら開けると思う」などと秀徳くん失踪に関わったことを仄めかすような供述をしたものの、その後は一切の取り調べを拒否して「知らない」と答えるばかりだった。「子供を抱いているときはマリア様になれるんだね。私の人生にあまりにも大きな犠牲を払った。私やり直せるんだろうか。」、「私どうして狂っちゃったんだろうね。」などと過去を悔いるような発言もあった。このとき、ポリグラフ検査も行われている。検察は起訴を断念。
その後、Kは引っ越して3度目の結婚をしたが、やはり長く続かずに離婚した。
【時効間近に】
殺人罪の公訴時効15年が目前に迫る1998年11月、短鎖式DNA鑑定により件の子どもの骨が城丸秀徳くんの骨であると特定された。11月15日、Kを逮捕。このときKは43歳になっていた。
12月7日、起訴。この時点で傷害致死・死体遺棄・死体損壊罪での公訴時効を過ぎており、殺人罪での起訴となったが、秀徳くんの死因が不明であるため「不詳の方法」により殺害したとされた。
取り調べ捜査の中で、事件当日にKが段ボール箱を義姉と共に自動車で運び出し、その後転居を重ねながらもその段ボールを手元に置いていたことが明らかになった。また、Kには娘がいたが、秀徳くん失踪後には男児用の品を買い揃えたり、嫁ぎ先のWさん宅でも仏壇に供え物をするなど供養と思われる行動を取っていたという。
【裁判と判決】
公判が始まるとKは黙秘権を行使した。検察による約400回の質問に対して、YESともNOとも言わず、ただ「お答えすることはありません」とだけ答え続けた。
2001年5月1日、札幌地裁判決。無罪判決。件の骨が秀徳くんのものというDNA鑑定結果は事実として認定された。また、状況証拠から、Kが秀徳くんを電話で呼び出し、何らかの方法で殺害に関わり、失踪当日に遺体を段ボールに入れて搬出したとされた。しかし、死因が特定できないためKに殺意があったかは不明で、身代金目的という動機についても認定されなかった。
「状況的に見て、Kが重大な犯罪により秀徳くんを死亡させた疑いが強いということができるが、Kが殺意をもって秀徳くんを死亡させたと認定するには、なお合理的な疑いが残る」と結論された。Kは限りなく黒に近い、というところまで踏み込んだ異例の判決だった。一方で、Kの黙秘権の行使について「被告が何らの弁解や供述をしなかったことをもって、犯罪事実の認定不利益に考慮することが許されないのはいうまでもない」と擁護した。
検察側が控訴。
2002年3月19日、札幌高裁判決。検察による控訴を棄却。動機に関して、Kは事件当時約830万円もの借金があり、一方で城丸家が相当の資産家であったという事実から、Kは秀徳くんを金銭目的で呼び出したと強く推認されるとしたが、当日のKの行動からしてやはり身代金目的の誘拐だったとまで断定はできないとした。殺意についても、各種証拠は多義的に理解しうるものであって、被告の殺意を強力に推認させるだけの証拠が存在しないとした。
黙秘権の行使について付言するのは、元々弁護側は黙秘権を行使するとして被告人質問の実施自体に反対していたところ、「被告人が明確に黙秘権を行使する意思を示しているにもかかわらず、延々と質問を続けるなどということはそれ自体が被告人の黙秘権の行使を危うくするものであり疑問を感じざるを得ない」とし、黙秘を続けることそれ自体を被告人にとって不利益な事実として認定しようとする検察側の態度を批判した。
検察は上告を断念して無罪確定。
【結末】
2002年5月2日、Kは札幌地裁に対して拘束された928日分の日当および弁護士費用、計1160万円を請求した。11月18日、札幌地裁は補償金として1178万円を支払うことを決定した。
【出典】
高裁判決文は裁判所ウェブサイトで参照可能。札幌高裁平成13年(う)第119号。
【行方不明になった少年】
1984年1月10日午前9時35分頃、札幌市豊平区の城丸さん宅の電話が鳴った。当時小学4年生の秀徳くんが取り、親に代わることなくそのまま話し続けた。そして電話を終えた秀徳くんは「ワタナベさんのお母さんが僕の物を知らないうちに借りて、それを返したいと言っている。函館に行くと言っている。車で来るから道で渡してくれる。それを取りに行く」などと言いだした。
要領を得ない話に家族は混乱する。電話をしている秀徳くんは緊張していて家族には話を聞かれたくない風だったというから、秀徳くんは何か都合が悪いことがあって内容を誤魔化して家族に説明したのだと思われる。いずれにせよ秀徳くんは何者かに呼び出され、すぐに家を出ていった。心配になった母親は兄(当時12歳、小学6年生)について行かせたが途中で見失ってしまった。秀徳くんは兄がついてきていることに気づくと、走って振り切ったらしい。
兄が行方を見失った近くには「ワタナベ家」があった。城丸家がそのワタナベ家を訪ねてみるも、秀徳くんは来ておらず、また城丸家に電話もしていないとのことだった。
【最後の目撃証言】
警察の捜査が開始されるとすぐに目撃証言が得られた。行方を見失った近くのアパート「二楽荘」の2階に上がっていく秀徳くんを見たという。その二楽荘2階に住む女性K(当時29歳)は、「秀徳くんが『ワタナベさんの家を知りませんか』と尋ねてきたので、ワタナベさんの家は隣だよと教えた」と述べた。Kが教えたワタナベさんの家とは上述の「ワタナベ家」のことである。しかし「ワタナベ家」はやはり秀徳くんは家に来ていないと言い、任意の家宅捜査でも何らの証拠も発見されなかったため、Kの証言が秀徳くんの最後の目撃証言となった。
警察は身代金目的の誘拐の可能性も考慮したが、特に電話はかかってこない。1月14日より公開捜査に切り替えられるも、新たな目撃証言等は得られず。捜査はここで行き詰まってしまう。
【疑惑の女】
1987年12月30日午前3時頃、北海道樺戸郡新十津川町の農家で出火。火事によりWさん(当時36歳)が焼死した。Wさんは、Kと86年5月に結婚していた。Kにとっては2番目の夫である。
この火事には不審な点がいくつかあった。まず、深夜の火事であったにも関わらず、Kとその娘は着替えを万全に済ませて靴もちゃんと履いていた。さらに、Wさんには2億円近い生命保険がかけられており、Kは預金通帳や保険関係書類一式もしっかりと持ち出していた。農家のWさんと夜の街で生きてきたKの結婚生活をWさんの親族が心配していた最中での出来事だった。警察は放火の線で捜査したが、放火した証拠を見つけられず立件は断念。Kは保険金を請求したが、後に取り下げている。
火事から半年経った1988年6月19日、Wさんの親族が焼け残った納屋を整理していると不審なポリ袋を発見。中身は人の骨のようだった。警察によって「火葬された子どもの骨」ということが判明。城丸秀徳くんの骨と強く疑われたが、当時のDNA鑑定技術ではそこまで特定することはできなかった。
事情聴取を受けたKは、当初は「心を開く気持ちはある。だけど、今すぐは開けない。時期が来たら開けると思う」などと秀徳くん失踪に関わったことを仄めかすような供述をしたものの、その後は一切の取り調べを拒否して「知らない」と答えるばかりだった。「子供を抱いているときはマリア様になれるんだね。私の人生にあまりにも大きな犠牲を払った。私やり直せるんだろうか。」、「私どうして狂っちゃったんだろうね。」などと過去を悔いるような発言もあった。このとき、ポリグラフ検査も行われている。検察は起訴を断念。
その後、Kは引っ越して3度目の結婚をしたが、やはり長く続かずに離婚した。
【時効間近に】
殺人罪の公訴時効15年が目前に迫る1998年11月、短鎖式DNA鑑定により件の子どもの骨が城丸秀徳くんの骨であると特定された。11月15日、Kを逮捕。このときKは43歳になっていた。
12月7日、起訴。この時点で傷害致死・死体遺棄・死体損壊罪での公訴時効を過ぎており、殺人罪での起訴となったが、秀徳くんの死因が不明であるため「不詳の方法」により殺害したとされた。
取り調べ捜査の中で、事件当日にKが段ボール箱を義姉と共に自動車で運び出し、その後転居を重ねながらもその段ボールを手元に置いていたことが明らかになった。また、Kには娘がいたが、秀徳くん失踪後には男児用の品を買い揃えたり、嫁ぎ先のWさん宅でも仏壇に供え物をするなど供養と思われる行動を取っていたという。
【裁判と判決】
公判が始まるとKは黙秘権を行使した。検察による約400回の質問に対して、YESともNOとも言わず、ただ「お答えすることはありません」とだけ答え続けた。
2001年5月1日、札幌地裁判決。無罪判決。件の骨が秀徳くんのものというDNA鑑定結果は事実として認定された。また、状況証拠から、Kが秀徳くんを電話で呼び出し、何らかの方法で殺害に関わり、失踪当日に遺体を段ボールに入れて搬出したとされた。しかし、死因が特定できないためKに殺意があったかは不明で、身代金目的という動機についても認定されなかった。
「状況的に見て、Kが重大な犯罪により秀徳くんを死亡させた疑いが強いということができるが、Kが殺意をもって秀徳くんを死亡させたと認定するには、なお合理的な疑いが残る」と結論された。Kは限りなく黒に近い、というところまで踏み込んだ異例の判決だった。一方で、Kの黙秘権の行使について「被告が何らの弁解や供述をしなかったことをもって、犯罪事実の認定不利益に考慮することが許されないのはいうまでもない」と擁護した。
検察側が控訴。
2002年3月19日、札幌高裁判決。検察による控訴を棄却。動機に関して、Kは事件当時約830万円もの借金があり、一方で城丸家が相当の資産家であったという事実から、Kは秀徳くんを金銭目的で呼び出したと強く推認されるとしたが、当日のKの行動からしてやはり身代金目的の誘拐だったとまで断定はできないとした。殺意についても、各種証拠は多義的に理解しうるものであって、被告の殺意を強力に推認させるだけの証拠が存在しないとした。
黙秘権の行使について付言するのは、元々弁護側は黙秘権を行使するとして被告人質問の実施自体に反対していたところ、「被告人が明確に黙秘権を行使する意思を示しているにもかかわらず、延々と質問を続けるなどということはそれ自体が被告人の黙秘権の行使を危うくするものであり疑問を感じざるを得ない」とし、黙秘を続けることそれ自体を被告人にとって不利益な事実として認定しようとする検察側の態度を批判した。
検察は上告を断念して無罪確定。
【結末】
2002年5月2日、Kは札幌地裁に対して拘束された928日分の日当および弁護士費用、計1160万円を請求した。11月18日、札幌地裁は補償金として1178万円を支払うことを決定した。
【出典】
高裁判決文は裁判所ウェブサイトで参照可能。札幌高裁平成13年(う)第119号。