2005年11月7日午後14時頃、福井県大野市にて、大音量のクラシック音楽を流してエンジンをかけたままの無人の車が停まっているのを、不審に思った近所の住人が通報した。

 警察が駆けつけたところ、車が停車されていたのは既に使われなくなって30年以上経つ火葬場の前で、その火葬場の焼却炉から白骨化した2人の遺体が発見された。遺体は同市に住む80代の高齢夫婦と判明。妻は数年前から認知症の症状が表れており、夫が"老老介護"の末に心中したと見做されている。

【ただ二人だけで】
 夫は当時80歳で、妻は当時82歳。地域ではどこへ行くにも一緒の仲の良い夫婦として知られていたという。しかし数年前から妻が糖尿病から歩行が困難になり、更に認知症が進行した。そこで、掃除・洗濯・食事といった家事も、妻の介護も、夫が一人だけでこなした。妻を病院へ連れて行く際も夫が車を運転した。二人の間に子どもはいなかった。

 地域の住人も夫妻を心配していた。ただ、夫婦ともに他人に世話をされたくないという気持ちが強かったらしい。妻は週に二回デイサービスを受けており、ケアマネージャーが食事の配達(給食)サービスを提案したこともあったというが、夫の意志は頑なだった。自分で買い物に行って、自分で二人分の食事を用意し続けた。

 後述するが、夫妻には十分な預貯金があった。お金の心配があって介護サービスを受けられなかったわけではない。他人の世話になるくらいならば、他人に迷惑をかけるならば、という只々その思いだけだった。

 勿論、妻の介護はたいへんだっただろう。疲れは当然あっただろう。それは第三者が軽々しく想像してはいけないものだ。しかし、この夫婦の心中というのは「老老介護に疲れた末にどうにもこうにも立ち行かなくなって…」というニュアンスとは少し異なると思う。

 妻の記憶から夫との思い出はどんどん色褪せていく。夫も最近は体調を崩しがちであったという。自分たちを看取る子どもはいない。生きることも死ぬことも選べずにベッドの上で過ごすよりも、見ず知らずの人間に看取られるよりも、そして最愛の人と離れ離れで逝くよりも、全てを自分の意思で判断できるうちに自らの手で人生を終えてしまいたい。そんな多くの人が心の中で密かに望んでいながら実行できないことを二人はやってのけたのだ。壮絶な覚悟があったのは間違いないが、二人の最期は決して不幸なものではなかったはずだ。

【最期の日】
 二人は11月6日の夜に家を出た。焼却炉の前に停められた車の中の給油伝票の裏面にメモが見つかっている。そこには「午後四時半、車の中に妻を待たせている」、「午後八時、妻とともに家を出る」、「妻は一言も言わずに待っている」、「午前零時四十五分をもって点火する、さようなら」という最期の瞬間までの行動が淡々と記されていた。また、家を出てからは親類宅や二人の思い出の場所を回ってから焼却炉へ向かったことも分かった。そして自ら用意した薪で火を起こした焼却炉に一緒に入り、内側から扉を閉めた…。

 事件後の住宅からは夫の日記が見つかっている。そこから読み取るには、夫は一年以上前から身辺整理を進めていたようだ。そして最後のページは11月6日付で「妻と共に逝く」ことが書かれていた。

【後始末】
 事件発覚の翌日11月8日には、市役所に一通の手紙が届いた。それは夫による"遺言状"であった。そこには所有する住居・土地・農地などの不動産が箇条書きされ、それらを市に寄付する旨が書かれていた。夫による署名有り。作成日は一年前。日記にもあるとおり、彼はある日突然に心中を決断したのではなく、周到に準備を進めていたのだ。なお、預貯金については世話になった人たちに配るように書かれていたという。

 しかし大野市は「寄付を受けても農場の管理ができない」として受け取りを拒否。結果、夫婦の親族が相続することになった模様だ。

【終活という言葉】
 「終活」という言葉が登場するのは、この事件よりもう少し後のこと。新語・流行語にノミネートされたのは2010年だ。それはともかくとして、本事件の夫婦の終活は、決して真似をしていいやり方ではないが、しかしどうにもケチのつけようのない美しさがある。

【出典】
 読売新聞2005年11月8日「大野の閉鎖火葬場に遺体=福井」
 毎日新聞2005年11月9日「焼死体:旧火葬場の焼却炉内に 老夫婦、自殺かーー福井」
 読売新聞2005年11月9日「大野の火葬場で発見の男性遺体、身元判明=福井」 
 朝日新聞2005年11月9日「2遺体の1人は近くに住む男性 大野の火葬場焼死体/福井県」
 産経新聞2005年11月10日「福井の老夫婦火葬場心中 孤独な現実…死を選択 妻は認知症、付き合い苦手」
 朝日新聞2005年11月12日「老老介護悲しい結論 認知症の妻、案じ 福井の夫婦、旧火葬場で心中か」
 読売新聞2006年1月11日「大野市、心中夫婦の遺産受け取りを放棄=福井」
 朝日新聞2006年1月11日「大野市、寄付を放棄「有効な活用策ない」老夫婦旧火葬場心中事件/福井県」