2010年1月27日の午後18時頃、大分県竹田市内の住宅にて、男性X(当時49歳)が同居している母親(78歳)を刺殺する事件が発生した。
Xはまず母親を殴打した後、台所から缶切りを持ってきて頸動脈や心臓付近を何度も刺した。それでも母の心臓が動いているようだったので、金属製の箸も持ってきて心臓付近を刺した。その後もこのような缶切りと金属箸を用いて刺す行為を1時間近く続けた。そしてその日はそのまま寝て、翌日28日の朝10時頃に自ら110番通報して緊急逮捕された。
裁判では、前記殺害行為は事実と認定した上でXの責任能力の有無が争われた。なお、Xは事件発覚前に自ら110番通報したため、自首が認められている。
【思いつめた男】
Xは、大学を卒業した後に税理士事務所で働き始めた。税理士の資格も取得した。しかし10年ほどすると事務所を辞め、その後は15年以上に渡って自宅で引きこもった生活を続けていた。父が亡くなってからは母親との2人暮らしだった。
事件の前日1月26日、ふと「母親を殺そう」と思い、さらに「弟も殺そう」と考えたという。Xは電話で弟を呼び出し、夜になって弟が帰ろうとした際に包丁を突きつけた。弟はXから包丁を取り上げ、母親もXを制止した。弟は身の危険を感じたため、取り上げた包丁を持ってそのまま自身の家へ帰った。
日付が変わって27日の午前3時頃、Xは再び母親を狙い、寝ていた母親に包丁を突きつける。目を覚ました母親が泣き叫んで逃げ出したので、Xは包丁を置いてその場を離れた。しかし朝8時頃、朝食の準備を終えた母親が包丁を台所に置いていたため、Xはまたしても包丁を持って襲う。母親はまた逃げ出し、Xも追わなかった。そして夕方になり、いよいよ上記殺害行為に至ったのである。
【心神喪失と心神耗弱】
刑法39条は「心神喪失者の行為は、罰しない。」と定め、刑法39条2項では「心神耗弱者の行為は、その刑を軽減する。」と定める。この心神喪失者及び心神耗弱者の定義は刑法上には存在しないが、判例から、心神喪失とは「精神障害のせいで善悪を全く判断できないか、または判断したとおりに行動することが全くできない状態」を指し、心神耗弱とは「精神障害のせいで善悪の判断力または判断どおりに行動する力が著しく低い状態」を指すとされている。
一審公判において、検察側は、被告人が統合失調症に罹患し、責任能力が著しく減退していたとはいえ、完全に失われていたわけではなく、「心神耗弱」の状態にあったと主張。一方で、弁護側は、被告人が重篤な統合失調症に罹患しており、「心神喪失」の状態にあったから無罪であると主張した。
【裁判と判決】
2011年2月2日、大分地裁判決。懲役3年・保護観察付き執行猶予5年の有罪判決。
「被告人は慢性期の統合失調症に罹患し、精神障害の程度は重いものであった」と認定した上で、精神障害に完全に支配されたわけではなく、自分の行動が良いことか悪いことかを理解し、悪いことは思いとどまる能力があり、心神耗弱の状態にあったと認定した。弁護側が控訴。
2011年10月18日、福岡高裁判決。一審判決を破棄して逆転無罪判決。
犯行に統合失調症の影響があったという認定は一審と同様だが、精神障害の程度についてはより重度に評価した。すなわち動機・犯行前後の行動・犯行の態様について、状況を正しく理解して行動していたとする一審とは反対に、奇妙で不可解なものと評価し、責任能力を失っていなかったと認めるにはいまだ合理的な疑いが残るとした。そして「限定的ながらも責任能力を認めた一審判決は、証拠の評価を誤り、事実を誤認したものといわざるを得ず、破棄を免れない」と結論した。
2011年11月1日、検察が上告を断念することを発表。Xの無罪が確定。裁判員裁判の有罪判決を高裁が破棄して無罪判決が確定するのは全国初。
【裁判員裁判の課題】
一般的な刑事事件における被告の責任能力の有無は、本件のように精神科医による鑑定を参考にして判断されることが多い。本事件ではこの精神鑑定結果に対する判断が一審裁判員裁判と控訴審で分かれたわけだが、この点について審理時間の差が指摘されている。すなわち一審はおよそ1週間の審理だったのに対して、控訴審はおよそ1ヶ月半かけているのだ。
専門家による精神鑑定の内容を理解し、そしてそれを基に被告の責任能力について判断を下すのは容易なことではない。果たして本件一審は一般市民である裁判員にとって十分な審理時間だったと言えるだろうか?
結果として本事件は、裁判員裁判の有罪判決を「事実誤認がある」として高裁が覆して無罪が確定した初の事例となり、裁判員制度の難しさをまた一つ浮き彫りにしたのだった。
【判決文】
福岡高裁平成23年(う)第122号。
【出典】
読売新聞2010年1月28日「母親殺害容疑 49歳の男逮捕/大分・竹田署」
読売新聞2010年2月18日「竹田母親殺害 次男を起訴 裁判員裁判対象事件=大分」
読売新聞2011年1月26日「母親殺害裁判員裁判 被告起訴事実認める 弁護側「心神喪失」無罪主張=大分」
朝日新聞2011年2月3日「母殺害の被告に有罪「責任能力失われず」大分地裁」
毎日新聞2011年2月3日「裁判員裁判:竹田の母親殺害 猶予付き判決、被告の心神耗弱認定--地裁 /大分」
産経新聞2011年10月18日「母親殺害の男性に逆転無罪 1審裁判員裁判では初 福岡高裁」
日本経済新聞2011年10月18日「母親殺害の男性に逆転無罪 福岡高裁が一審破棄」
朝日新聞2011年10月19日「責任判断、裁判員に重荷 一審評価を高裁が批判 大分の母親殺害、逆転無罪」
読売新聞2011年10月19日「責任能力「裁判員には困難」 母親殺害2審無罪 短期審理、識者は問題視」
読売新聞2011年10月29日「大分母親殺害 上告断念へ 福岡高検 高裁で逆転無罪の男性」
朝日新聞2011年11月2日「殺人事件の被告、逆転無罪確定へ 福岡高検が上告断念」
Xはまず母親を殴打した後、台所から缶切りを持ってきて頸動脈や心臓付近を何度も刺した。それでも母の心臓が動いているようだったので、金属製の箸も持ってきて心臓付近を刺した。その後もこのような缶切りと金属箸を用いて刺す行為を1時間近く続けた。そしてその日はそのまま寝て、翌日28日の朝10時頃に自ら110番通報して緊急逮捕された。
裁判では、前記殺害行為は事実と認定した上でXの責任能力の有無が争われた。なお、Xは事件発覚前に自ら110番通報したため、自首が認められている。
【思いつめた男】
Xは、大学を卒業した後に税理士事務所で働き始めた。税理士の資格も取得した。しかし10年ほどすると事務所を辞め、その後は15年以上に渡って自宅で引きこもった生活を続けていた。父が亡くなってからは母親との2人暮らしだった。
事件の前日1月26日、ふと「母親を殺そう」と思い、さらに「弟も殺そう」と考えたという。Xは電話で弟を呼び出し、夜になって弟が帰ろうとした際に包丁を突きつけた。弟はXから包丁を取り上げ、母親もXを制止した。弟は身の危険を感じたため、取り上げた包丁を持ってそのまま自身の家へ帰った。
日付が変わって27日の午前3時頃、Xは再び母親を狙い、寝ていた母親に包丁を突きつける。目を覚ました母親が泣き叫んで逃げ出したので、Xは包丁を置いてその場を離れた。しかし朝8時頃、朝食の準備を終えた母親が包丁を台所に置いていたため、Xはまたしても包丁を持って襲う。母親はまた逃げ出し、Xも追わなかった。そして夕方になり、いよいよ上記殺害行為に至ったのである。
【心神喪失と心神耗弱】
刑法39条は「心神喪失者の行為は、罰しない。」と定め、刑法39条2項では「心神耗弱者の行為は、その刑を軽減する。」と定める。この心神喪失者及び心神耗弱者の定義は刑法上には存在しないが、判例から、心神喪失とは「精神障害のせいで善悪を全く判断できないか、または判断したとおりに行動することが全くできない状態」を指し、心神耗弱とは「精神障害のせいで善悪の判断力または判断どおりに行動する力が著しく低い状態」を指すとされている。
一審公判において、検察側は、被告人が統合失調症に罹患し、責任能力が著しく減退していたとはいえ、完全に失われていたわけではなく、「心神耗弱」の状態にあったと主張。一方で、弁護側は、被告人が重篤な統合失調症に罹患しており、「心神喪失」の状態にあったから無罪であると主張した。
【裁判と判決】
2011年2月2日、大分地裁判決。懲役3年・保護観察付き執行猶予5年の有罪判決。
「被告人は慢性期の統合失調症に罹患し、精神障害の程度は重いものであった」と認定した上で、精神障害に完全に支配されたわけではなく、自分の行動が良いことか悪いことかを理解し、悪いことは思いとどまる能力があり、心神耗弱の状態にあったと認定した。弁護側が控訴。
2011年10月18日、福岡高裁判決。一審判決を破棄して逆転無罪判決。
犯行に統合失調症の影響があったという認定は一審と同様だが、精神障害の程度についてはより重度に評価した。すなわち動機・犯行前後の行動・犯行の態様について、状況を正しく理解して行動していたとする一審とは反対に、奇妙で不可解なものと評価し、責任能力を失っていなかったと認めるにはいまだ合理的な疑いが残るとした。そして「限定的ながらも責任能力を認めた一審判決は、証拠の評価を誤り、事実を誤認したものといわざるを得ず、破棄を免れない」と結論した。
2011年11月1日、検察が上告を断念することを発表。Xの無罪が確定。裁判員裁判の有罪判決を高裁が破棄して無罪判決が確定するのは全国初。
【裁判員裁判の課題】
一般的な刑事事件における被告の責任能力の有無は、本件のように精神科医による鑑定を参考にして判断されることが多い。本事件ではこの精神鑑定結果に対する判断が一審裁判員裁判と控訴審で分かれたわけだが、この点について審理時間の差が指摘されている。すなわち一審はおよそ1週間の審理だったのに対して、控訴審はおよそ1ヶ月半かけているのだ。
専門家による精神鑑定の内容を理解し、そしてそれを基に被告の責任能力について判断を下すのは容易なことではない。果たして本件一審は一般市民である裁判員にとって十分な審理時間だったと言えるだろうか?
結果として本事件は、裁判員裁判の有罪判決を「事実誤認がある」として高裁が覆して無罪が確定した初の事例となり、裁判員制度の難しさをまた一つ浮き彫りにしたのだった。
【判決文】
福岡高裁平成23年(う)第122号。
【出典】
読売新聞2010年1月28日「母親殺害容疑 49歳の男逮捕/大分・竹田署」
読売新聞2010年2月18日「竹田母親殺害 次男を起訴 裁判員裁判対象事件=大分」
読売新聞2011年1月26日「母親殺害裁判員裁判 被告起訴事実認める 弁護側「心神喪失」無罪主張=大分」
朝日新聞2011年2月3日「母殺害の被告に有罪「責任能力失われず」大分地裁」
毎日新聞2011年2月3日「裁判員裁判:竹田の母親殺害 猶予付き判決、被告の心神耗弱認定--地裁 /大分」
産経新聞2011年10月18日「母親殺害の男性に逆転無罪 1審裁判員裁判では初 福岡高裁」
日本経済新聞2011年10月18日「母親殺害の男性に逆転無罪 福岡高裁が一審破棄」
朝日新聞2011年10月19日「責任判断、裁判員に重荷 一審評価を高裁が批判 大分の母親殺害、逆転無罪」
読売新聞2011年10月19日「責任能力「裁判員には困難」 母親殺害2審無罪 短期審理、識者は問題視」
読売新聞2011年10月29日「大分母親殺害 上告断念へ 福岡高検 高裁で逆転無罪の男性」
朝日新聞2011年11月2日「殺人事件の被告、逆転無罪確定へ 福岡高検が上告断念」