勘違い騎士道事件とは、1981年7月に千葉県で発生した事件である。英国騎士道事件とも呼ばれる。
スナックで泥酔してしまった女性が他の客と喧嘩を始めそうになり、連れの男性がなだめて帰宅させようとしていたところを、在日英国人男性が通り掛かった。
英国人は状況を誤解して男性が女性に暴行しようとしていると思い込み、すかさず2人の間に割って入る。すると男性がファイティングポーズのような姿勢をとったものだから、英国人は自分も襲われるとますます誤解し、とっさに男性の顔面に向かって回し蹴りをくり出した。英国人は空手三段の腕前であり、路上に倒された男性は頭を強く打ち8日後に死亡した…。
そのユニークな名で広く知られた事件であるが、正当防衛と過剰防衛、または誤想防衛と誤想過剰防衛を検討するにおいて、21世紀においても重要な判例である。
【泥酔して暴れる女とそれをなだめる男】
1981年7月5日午後18時頃、男性A(当時31歳)、Aの妻、女性B、Bの夫、男性C、Cの妻の6人組は、Aの自宅にて会食をしていた。20時頃には6人で千葉県市川市のスナックへと繰り出し、C夫婦は先に帰宅するが、B夫婦はかなり酩酊して些細な事で他の客と揉め事を起こし、特に酒癖の悪い女性Bが喧嘩を始めそうになってしまい、男性AはB夫婦を店から連れ出して帰宅することにした。
午後22時頃、4人組は店を出るも、Bはまだ店に残りたいなどと言って大声で喚き散らしていた。AはBに対して「酔っているから帰ろう」とたしなめ、Bを抱え込むようにしてスナックの向かいにある倉庫の前へ連れて行く。しかしBは自身の夫に怒りをぶつけ、それをなだめていたAに対しても「うるせぇ、放せ、この野郎」などと言ってますます暴れだした。
そしてAとBは揉み合い状態になり、AがBの腕を払いのけると、Bは倉庫のシャッターに頭を打って大きな音をたて、さらに尻もちをつくようにして道路に倒れ込んだ。
【騎士道精神に溢れた英国人】
そんな場面に通り掛かったのが、本事件の被告人となる在日英国人男性Xである。英国人男性Xは日本人女性と結婚して来日し、英会話講師の仕事をしている人物。来日8年目ではあるものの、日本語の理解力は未だ十分ではなかったという。
同日の22時20分頃、英国人男性Xは映画を見た帰りで自転車に乗って走っていたところ、スナックの前で男女が揉み合っているのに気づいた。Xは自転車を停めて様子を観察していると、男性Aが女性Bの肩や腕に手をかけて体を引いたり押したりしているようであり、一方でBはそれから逃れようしているように見えた。その直後にBが尻もちをついて路面に倒れ、「助けて」と叫ぶのを聞いた。
BがAから暴行を受けていると思い込んだXは、2人の間に割り込み、Aに向かって「やめなさい、レディですよ」と言った。そしてBを助け起こそうとすると、Bは初め「助けて」と言い、Xが外国人であることに気づくと「ヘルプミー、ヘルプミー」と言ったらしい。
そこでXは、暴行を止めるようにという意味で、両手を胸の前にあげて掌をAに向ける。するとAは、左足を右足よりやや前に出し、胸の前で両手を拳に握って左手を前に右手をやや後に構える、いわゆるファイティングポーズのような姿勢をとった。これによってXは、AがBだけでなく自分にも殴りかかってくるものと判断し、とっさにAの右顔面付近に向かって左足で回し蹴りを繰り出した。
Xは空手三段・柔道一級の腕前であり、体格も身長180センチ・体重85キロと巨漢である。その回し蹴りは強烈で、身長160センチ・体重60キロのAはたまらず路面に倒れ込む。Xは既に立ち上がっていたBに「大丈夫ですか」と声をかけたり、付近にいた人に「警察呼んで」と伝えたりしていたものの、長居をすればAの仲間が集まってくるかもしれないと思い、その場を立ち去ってしまった。
倒されたAはコンクリートに左側頭部を打ち付けており、頭蓋骨骨折等の重傷を負い、意識を取り戻すことなく7月13日に脳挫傷によって死亡した。
【正当防衛と過剰防衛】
日本の刑法第三十六条では正当防衛と過剰防衛について以下のとおり規定する。
急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。
2 防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
では、「急迫不正の侵害」ではない、すなわち正当防衛の成立しない状況でありながら、正当防衛が成立すると錯誤してやむを得ずにした防衛行為、これはいわゆる「誤想防衛」と呼ばれるが、誤想防衛についてはどう考えればよいだろうか。また、上記のように正当防衛が成立すると錯誤しつつ、程度を超えた過剰な防衛行為、このような行為はいわゆる「誤想過剰防衛」と呼ばれるが、誤想過剰防衛についてはどのように考えるべきだろうか。
【地裁判決】
1984年2月7日、千葉地裁判決。無罪判決。
判決は、まず、本事件の状況において、AがBまたは被告人Xに対して急迫不正の侵害をなしていたという事実は存在せず、Xによる回し蹴り行為に正当防衛は成立しないとした。一方で、Xは状況を誤想していたのは明らかで、Xの日本語の理解力からしても誤想について過失はなかったとした。
その上で、回し蹴り行為が防衛行為として正当であったか過剰であったかついて、Xが急所蹴りや足払いといった危険性の高い技を用いておらず、虎趾よりも威力の劣る足の甲で回し蹴りを用いていることを重視した。被害者が転倒したのは、相当酔っていて、かつ不意打ちであったためであり、偶々打ちどころが悪かった点も重なって死亡してしまったのは、Xにとっては全く予想外の結果であったとした。
以上から、Xによる回し蹴り行為は、反撃行為により生じた結果は重大であるが、防衛手段としては相当なもので過剰防衛は成立せず、本件は誤想防衛に該当し、すなわち罪とならないと結論付けた。
検察側が控訴。
【高裁判決】
1984年11月22日、東京高裁判決。地裁判決を破棄して懲役1年6ヶ月執行猶予3年の逆転有罪判決。
急迫不正の侵害はなかったがXは状況を誤想していたという点については地裁と同様である。その上で回し蹴りによる防衛行為が妥当であったかついて、高裁判決では被告Xの腕前が考慮され、空手三段の腕前をもってすれば、相手の顔面に蹴りを命中させること無く、その直前でこれを止めること等で十分に目的を達成することが出来たと指摘。
被害者は凶器を持っておらず素手だったのだから、体力や体格で勝る被告は、警告の声を発したり、腕を引き続きさし出すなり、回し蹴りにしても相手の身体に当てないようにするなり、相手が殴打してきた段階で腕を払うなり、身をひくなり、防衛のために採るべき方法はいくらでもあったとして、被告回し蹴り行為は防衛行為として相当性を欠いて過剰であったと認定した。
過剰防衛であったことを前提として、防衛行為としての相当性を基礎づける事実、すなわち、回し蹴りを行うことについては被告人の認識に錯誤のないことも明らかであり、誤想防衛は成立せず、いわゆる誤想過剰防衛が成立するにすぎないとした。
一方で、正当防衛との均衡上、過剰防衛に関する刑法36条2 項の規定に準拠し、前科や前歴も無く善良な市民として生活してきた情状を考慮して、刑の減軽をなし得るものと解するのが相当として上記の量刑判断となった。
【最高裁判決】
1987年3月26日、最高裁決定。上告棄却。有罪判決が確定。
「本件回し蹴り行為は、被告人が誤信した急迫不正の侵害に対する防衛手段として相当性を逸脱していることが明らか」、「被告人の所為について傷害致死罪が成立し、いわゆる誤想過剰防衛に当たるとして刑法三六条二項により刑を減軽した原判断は、正当」と結論した。
【ケース・スタディ】
在日外国人による状況の勘違いから始まった本事件は、誤想防衛と誤想過剰防衛を考える際には21世紀に入ってからも必ず言及される重要判例である。
「回し蹴り」という行為の認定が地裁と高裁で全く異なることも興味深い。地裁判決では、急所蹴りや足払いといったより危険な技も仕掛けられる中で回し蹴りを選んだのは防衛行為として妥当であったとする。しかし空手有段者という点も考慮して被告防衛行為を過剰と認定した高裁判決においては、空手の技は一般生活で容易に用いるべきでない危険な技、空手における回し蹴りは一撃必殺の技、とした。空手有段者による蹴りは凶器に同じ、といったところか。
相手の状態(体格差、凶器の有無、攻撃をしかけたのか構えただけなのか等…)も当然考慮しなければならないが、いくら騎士道精神に基づく行動であっても、問答無用で回し蹴りを叩き込むような行為は過剰防衛と認定されるリスクが高いと言わざるを得ないだろう。因みに高裁判決によれば、被告Xは空手や柔道の他にも居合道・杖道・中国拳法を習っており、居合三段・杖道二段であったという。
【判決文】
千葉地裁昭和57年(わ)第713号
東京高裁昭和59年(う)第445号
最高裁昭和59年(あ)第1699号
スナックで泥酔してしまった女性が他の客と喧嘩を始めそうになり、連れの男性がなだめて帰宅させようとしていたところを、在日英国人男性が通り掛かった。
英国人は状況を誤解して男性が女性に暴行しようとしていると思い込み、すかさず2人の間に割って入る。すると男性がファイティングポーズのような姿勢をとったものだから、英国人は自分も襲われるとますます誤解し、とっさに男性の顔面に向かって回し蹴りをくり出した。英国人は空手三段の腕前であり、路上に倒された男性は頭を強く打ち8日後に死亡した…。
そのユニークな名で広く知られた事件であるが、正当防衛と過剰防衛、または誤想防衛と誤想過剰防衛を検討するにおいて、21世紀においても重要な判例である。
【泥酔して暴れる女とそれをなだめる男】
1981年7月5日午後18時頃、男性A(当時31歳)、Aの妻、女性B、Bの夫、男性C、Cの妻の6人組は、Aの自宅にて会食をしていた。20時頃には6人で千葉県市川市のスナックへと繰り出し、C夫婦は先に帰宅するが、B夫婦はかなり酩酊して些細な事で他の客と揉め事を起こし、特に酒癖の悪い女性Bが喧嘩を始めそうになってしまい、男性AはB夫婦を店から連れ出して帰宅することにした。
午後22時頃、4人組は店を出るも、Bはまだ店に残りたいなどと言って大声で喚き散らしていた。AはBに対して「酔っているから帰ろう」とたしなめ、Bを抱え込むようにしてスナックの向かいにある倉庫の前へ連れて行く。しかしBは自身の夫に怒りをぶつけ、それをなだめていたAに対しても「うるせぇ、放せ、この野郎」などと言ってますます暴れだした。
そしてAとBは揉み合い状態になり、AがBの腕を払いのけると、Bは倉庫のシャッターに頭を打って大きな音をたて、さらに尻もちをつくようにして道路に倒れ込んだ。
【騎士道精神に溢れた英国人】
そんな場面に通り掛かったのが、本事件の被告人となる在日英国人男性Xである。英国人男性Xは日本人女性と結婚して来日し、英会話講師の仕事をしている人物。来日8年目ではあるものの、日本語の理解力は未だ十分ではなかったという。
同日の22時20分頃、英国人男性Xは映画を見た帰りで自転車に乗って走っていたところ、スナックの前で男女が揉み合っているのに気づいた。Xは自転車を停めて様子を観察していると、男性Aが女性Bの肩や腕に手をかけて体を引いたり押したりしているようであり、一方でBはそれから逃れようしているように見えた。その直後にBが尻もちをついて路面に倒れ、「助けて」と叫ぶのを聞いた。
BがAから暴行を受けていると思い込んだXは、2人の間に割り込み、Aに向かって「やめなさい、レディですよ」と言った。そしてBを助け起こそうとすると、Bは初め「助けて」と言い、Xが外国人であることに気づくと「ヘルプミー、ヘルプミー」と言ったらしい。
そこでXは、暴行を止めるようにという意味で、両手を胸の前にあげて掌をAに向ける。するとAは、左足を右足よりやや前に出し、胸の前で両手を拳に握って左手を前に右手をやや後に構える、いわゆるファイティングポーズのような姿勢をとった。これによってXは、AがBだけでなく自分にも殴りかかってくるものと判断し、とっさにAの右顔面付近に向かって左足で回し蹴りを繰り出した。
Xは空手三段・柔道一級の腕前であり、体格も身長180センチ・体重85キロと巨漢である。その回し蹴りは強烈で、身長160センチ・体重60キロのAはたまらず路面に倒れ込む。Xは既に立ち上がっていたBに「大丈夫ですか」と声をかけたり、付近にいた人に「警察呼んで」と伝えたりしていたものの、長居をすればAの仲間が集まってくるかもしれないと思い、その場を立ち去ってしまった。
倒されたAはコンクリートに左側頭部を打ち付けており、頭蓋骨骨折等の重傷を負い、意識を取り戻すことなく7月13日に脳挫傷によって死亡した。
【正当防衛と過剰防衛】
日本の刑法第三十六条では正当防衛と過剰防衛について以下のとおり規定する。
急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。
2 防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
では、「急迫不正の侵害」ではない、すなわち正当防衛の成立しない状況でありながら、正当防衛が成立すると錯誤してやむを得ずにした防衛行為、これはいわゆる「誤想防衛」と呼ばれるが、誤想防衛についてはどう考えればよいだろうか。また、上記のように正当防衛が成立すると錯誤しつつ、程度を超えた過剰な防衛行為、このような行為はいわゆる「誤想過剰防衛」と呼ばれるが、誤想過剰防衛についてはどのように考えるべきだろうか。
【地裁判決】
1984年2月7日、千葉地裁判決。無罪判決。
判決は、まず、本事件の状況において、AがBまたは被告人Xに対して急迫不正の侵害をなしていたという事実は存在せず、Xによる回し蹴り行為に正当防衛は成立しないとした。一方で、Xは状況を誤想していたのは明らかで、Xの日本語の理解力からしても誤想について過失はなかったとした。
その上で、回し蹴り行為が防衛行為として正当であったか過剰であったかついて、Xが急所蹴りや足払いといった危険性の高い技を用いておらず、虎趾よりも威力の劣る足の甲で回し蹴りを用いていることを重視した。被害者が転倒したのは、相当酔っていて、かつ不意打ちであったためであり、偶々打ちどころが悪かった点も重なって死亡してしまったのは、Xにとっては全く予想外の結果であったとした。
以上から、Xによる回し蹴り行為は、反撃行為により生じた結果は重大であるが、防衛手段としては相当なもので過剰防衛は成立せず、本件は誤想防衛に該当し、すなわち罪とならないと結論付けた。
検察側が控訴。
【高裁判決】
1984年11月22日、東京高裁判決。地裁判決を破棄して懲役1年6ヶ月執行猶予3年の逆転有罪判決。
急迫不正の侵害はなかったがXは状況を誤想していたという点については地裁と同様である。その上で回し蹴りによる防衛行為が妥当であったかついて、高裁判決では被告Xの腕前が考慮され、空手三段の腕前をもってすれば、相手の顔面に蹴りを命中させること無く、その直前でこれを止めること等で十分に目的を達成することが出来たと指摘。
被害者は凶器を持っておらず素手だったのだから、体力や体格で勝る被告は、警告の声を発したり、腕を引き続きさし出すなり、回し蹴りにしても相手の身体に当てないようにするなり、相手が殴打してきた段階で腕を払うなり、身をひくなり、防衛のために採るべき方法はいくらでもあったとして、被告回し蹴り行為は防衛行為として相当性を欠いて過剰であったと認定した。
過剰防衛であったことを前提として、防衛行為としての相当性を基礎づける事実、すなわち、回し蹴りを行うことについては被告人の認識に錯誤のないことも明らかであり、誤想防衛は成立せず、いわゆる誤想過剰防衛が成立するにすぎないとした。
一方で、正当防衛との均衡上、過剰防衛に関する刑法36条2 項の規定に準拠し、前科や前歴も無く善良な市民として生活してきた情状を考慮して、刑の減軽をなし得るものと解するのが相当として上記の量刑判断となった。
【最高裁判決】
1987年3月26日、最高裁決定。上告棄却。有罪判決が確定。
「本件回し蹴り行為は、被告人が誤信した急迫不正の侵害に対する防衛手段として相当性を逸脱していることが明らか」、「被告人の所為について傷害致死罪が成立し、いわゆる誤想過剰防衛に当たるとして刑法三六条二項により刑を減軽した原判断は、正当」と結論した。
【ケース・スタディ】
在日外国人による状況の勘違いから始まった本事件は、誤想防衛と誤想過剰防衛を考える際には21世紀に入ってからも必ず言及される重要判例である。
「回し蹴り」という行為の認定が地裁と高裁で全く異なることも興味深い。地裁判決では、急所蹴りや足払いといったより危険な技も仕掛けられる中で回し蹴りを選んだのは防衛行為として妥当であったとする。しかし空手有段者という点も考慮して被告防衛行為を過剰と認定した高裁判決においては、空手の技は一般生活で容易に用いるべきでない危険な技、空手における回し蹴りは一撃必殺の技、とした。空手有段者による蹴りは凶器に同じ、といったところか。
相手の状態(体格差、凶器の有無、攻撃をしかけたのか構えただけなのか等…)も当然考慮しなければならないが、いくら騎士道精神に基づく行動であっても、問答無用で回し蹴りを叩き込むような行為は過剰防衛と認定されるリスクが高いと言わざるを得ないだろう。因みに高裁判決によれば、被告Xは空手や柔道の他にも居合道・杖道・中国拳法を習っており、居合三段・杖道二段であったという。
【判決文】
千葉地裁昭和57年(わ)第713号
東京高裁昭和59年(う)第445号
最高裁昭和59年(あ)第1699号