1997年1月14日午後0時半過ぎ、東京都多摩市貝取の市道にあるマンホールから汚水が溢れ出し、業者が調べてみたところ、内部から女性の腐乱死体が発見された。警察の調べにより死体は96年2月から行方不明になっていた保母の女性と特定。殺人・死体遺棄事件として直ちに捜査が開始されたものの、2022年6月現在も犯人は特定されていない。捜査継続中。
【保母はどこへ行った】
本事件の被害者は八木橋富貴子さん。遺体発見当時39歳。1977年3月に青森の短大を卒業後、上京して東京都多摩市の保育園に就職。多摩市内のアパートに住みながら、1991年からは北区の私立保育園に移った。
しかし、1996年2月27日午後17時半過ぎ、八木橋さんは仕事を終えて板橋区内の都営地下鉄本蓮沼駅で同僚女性と別れたのを最後に忽然と姿を消した。以後の目撃証言は一切無い。 19年の保母生活で初めて担当した年長クラスの卒園式を控え、「私が面倒を見た子どもたちを初めて卒園させることができる」と感慨深く語っていたというのに不可解な失踪であった。
【無言電話】
保育園から無断欠勤の連絡を受け、父親は直ぐに青森から駆けつけた。富貴子さんの居室を訪れると、玄関の鍵はかかっていたものの、冷蔵庫には2月27日に販売されたイチゴがあった。部屋に残されたレシートから27日午後18時50分頃に近所のスーパーで買ったものだと判明。どうやら富貴子さんは同僚と別れたのち買い物をして一度帰宅したらしい。では何時、何処へ出かけたというのだろう。
通帳もそのまま残され、口座の預金も出金した形跡は無かった。卒園式で着るために友達から借りた袴もそのまま残されていた。とても自発的失踪とは思えない。ひょっとしたら事件に巻き込まれたのではないか。父親は疑った。
すると富貴子さん宅の電話が鳴った。父親が応じるとすぐに切れたが、電話の相手は無言のまま様子を伺っている風だったという。この後、4月6日までに6回の無言電話があった。
家族や同僚たちはますます不安を募らせたが、有力な手がかりは無く、自作のポスターを貼るなどして情報提供を求めつつ富貴子さんの帰りを待ち続けるしかなかった。
【無惨】
しかし、1997年1月14日、家族や同僚の希望は打ち砕かれる。冒頭のとおり、多摩市貝取一丁目市道のマンホールの中から女性の腐乱死体を発見。その腐乱の激しさから容易には身元が分からなかったが、歯の治療跡を根拠として八木橋富貴子さんと特定されたのである。
死体は頭頂部や鼻などの数カ所の骨が折れていた。死後数ヶ月とされている。しかし腐乱が激しく死因は不明。
彼女の服装は同僚が最後に目撃した際のそれとは変わっており、やはり一度帰宅して着替えたようである。ただ、出かけて交通事故に遭ったとすれば手や足の骨が折れたりしているはずだがそのような痕跡は確認されず、何者かが意図を持って彼女を殺害した後に死体を遺棄したと見做されている。
アパートからマンホールまでは約500メートル。蓋は約40キロもあり、特殊な工具を使わないと開けられないという。腐乱して溶け出した死体がマンホールを詰まらせて汚水が溢れ出したため事件が発覚したが、場合によってはさらに長期間行方が分からなくてもおかしくはなかった。犯人にとっては絶好の隠し場所だっただろう。
【捜査】
富貴子さんは手帳サイズの日記帳を持ち歩いており、その日あった出来事を几帳面に書き留めていた。しかし、部屋を探しても1995年の日記が見当たらないことが分かった。彼女の日記には犯人を特定し得る情報が書かれており、犯人自らが持ち去ったのだと考えられている。
上記の日記の件も踏まえ、警察は犯人と被害者が顔見知りという線に立ち、かつて富貴子さんと交際していた男性を事情聴取した。男性は別の女性と結婚してからも富貴子さんと交際を続けていてトラブルがあったらしい。仕事がらマンホールの取り扱いにも詳しかったという。
だが、追求はそこまで。決定的な証拠があるわけでもなく、男性は捜査線上から外れていった。彼は新聞社の取材に対して「彼女と最後に会ったのは4、5年前で、事件にはまったく心当たりがない」と答えている。同時期に起こった東電OL殺害事件のように週刊誌が被害者や関係者のプライバシーを様々書き立てる中で、男性への"犯人視"が加熱し過ぎた感は否めない。
【現在】
2010年の刑事訴訟法改正により殺人事件の公訴時効は撤廃された。本事件は2022年現在も捜査継続中である。
警視庁のホームページ(下記)によれば、1996年2月下旬の夜、現場マンホール前で工事用のバリケードを出し、側にワゴン車を停車している男性が目撃されていたとのことで、事件の真相を知っている可能性があるとして情報提供を呼びかけている。
【リンク】
警視庁による情報提供呼びかけページは以下。
https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/jiken_jiko/ichiran/ichiran_10/181.html
【その他の事件】
江戸川区篠崎ポンプ所身元不明女性バラバラ殺人事件(1988年)
殺害後に死体をバラバラにしてマンホール内に遺棄した結果、汚水処理場へと流れ着いたとみられる事件。被害者の身元は特定されていない。迷宮入り。
【出典】
朝日新聞1997年1月15日「マンホール下に女性の遺体 東京・多摩市」
毎日新聞1997年1月15日「マンホール内に女性の変死体 行方不明の保母か 東京・多摩市」
読売新聞1997年1月15日「マンホールに女性の変死体/東京・多摩」
朝日新聞1997年1月16日「マンホール内の遺体、失跡の保母 自宅に無言電話数回 東京・多摩」
産経新聞1997年1月16日「マンホール女性遺体 失跡保母と断定 交友関係のトラブルか 多摩」
産経新聞1997年1月16日「多摩市の保母殺害 失跡前、男性出入り 自宅でトラブルか」
毎日新聞1997年1月16日「マンホール死体、行方不明の保母と確認 東京・多摩」
読売新聞1997年1月16日「マンホールの遺体、失跡保母と断定/東京・多摩」
毎日新聞1997年1月20日「多摩の保母殺人 発見から1週間 初の担当「年長組」卒園式控え…」
産経新聞1997年2月1日「多摩の保母殺人 消えた日記に犯人の手掛かり?」
産経新聞1997年2月10日「多摩の保母マンホール殺人 知人の40代男性聴取 交際めぐりトラブル?警視庁」
産経新聞1997年2月11日「裏付け捜査急ぐ 多摩の保母殺人」
東京新聞1997年12月24日「多摩保母マンホール殺人事件 背中ににじむ父の無念」
【保母はどこへ行った】
本事件の被害者は八木橋富貴子さん。遺体発見当時39歳。1977年3月に青森の短大を卒業後、上京して東京都多摩市の保育園に就職。多摩市内のアパートに住みながら、1991年からは北区の私立保育園に移った。
しかし、1996年2月27日午後17時半過ぎ、八木橋さんは仕事を終えて板橋区内の都営地下鉄本蓮沼駅で同僚女性と別れたのを最後に忽然と姿を消した。以後の目撃証言は一切無い。 19年の保母生活で初めて担当した年長クラスの卒園式を控え、「私が面倒を見た子どもたちを初めて卒園させることができる」と感慨深く語っていたというのに不可解な失踪であった。
【無言電話】
保育園から無断欠勤の連絡を受け、父親は直ぐに青森から駆けつけた。富貴子さんの居室を訪れると、玄関の鍵はかかっていたものの、冷蔵庫には2月27日に販売されたイチゴがあった。部屋に残されたレシートから27日午後18時50分頃に近所のスーパーで買ったものだと判明。どうやら富貴子さんは同僚と別れたのち買い物をして一度帰宅したらしい。では何時、何処へ出かけたというのだろう。
通帳もそのまま残され、口座の預金も出金した形跡は無かった。卒園式で着るために友達から借りた袴もそのまま残されていた。とても自発的失踪とは思えない。ひょっとしたら事件に巻き込まれたのではないか。父親は疑った。
すると富貴子さん宅の電話が鳴った。父親が応じるとすぐに切れたが、電話の相手は無言のまま様子を伺っている風だったという。この後、4月6日までに6回の無言電話があった。
家族や同僚たちはますます不安を募らせたが、有力な手がかりは無く、自作のポスターを貼るなどして情報提供を求めつつ富貴子さんの帰りを待ち続けるしかなかった。
【無惨】
しかし、1997年1月14日、家族や同僚の希望は打ち砕かれる。冒頭のとおり、多摩市貝取一丁目市道のマンホールの中から女性の腐乱死体を発見。その腐乱の激しさから容易には身元が分からなかったが、歯の治療跡を根拠として八木橋富貴子さんと特定されたのである。
死体は頭頂部や鼻などの数カ所の骨が折れていた。死後数ヶ月とされている。しかし腐乱が激しく死因は不明。
彼女の服装は同僚が最後に目撃した際のそれとは変わっており、やはり一度帰宅して着替えたようである。ただ、出かけて交通事故に遭ったとすれば手や足の骨が折れたりしているはずだがそのような痕跡は確認されず、何者かが意図を持って彼女を殺害した後に死体を遺棄したと見做されている。
アパートからマンホールまでは約500メートル。蓋は約40キロもあり、特殊な工具を使わないと開けられないという。腐乱して溶け出した死体がマンホールを詰まらせて汚水が溢れ出したため事件が発覚したが、場合によってはさらに長期間行方が分からなくてもおかしくはなかった。犯人にとっては絶好の隠し場所だっただろう。
【捜査】
富貴子さんは手帳サイズの日記帳を持ち歩いており、その日あった出来事を几帳面に書き留めていた。しかし、部屋を探しても1995年の日記が見当たらないことが分かった。彼女の日記には犯人を特定し得る情報が書かれており、犯人自らが持ち去ったのだと考えられている。
上記の日記の件も踏まえ、警察は犯人と被害者が顔見知りという線に立ち、かつて富貴子さんと交際していた男性を事情聴取した。男性は別の女性と結婚してからも富貴子さんと交際を続けていてトラブルがあったらしい。仕事がらマンホールの取り扱いにも詳しかったという。
だが、追求はそこまで。決定的な証拠があるわけでもなく、男性は捜査線上から外れていった。彼は新聞社の取材に対して「彼女と最後に会ったのは4、5年前で、事件にはまったく心当たりがない」と答えている。同時期に起こった東電OL殺害事件のように週刊誌が被害者や関係者のプライバシーを様々書き立てる中で、男性への"犯人視"が加熱し過ぎた感は否めない。
【現在】
2010年の刑事訴訟法改正により殺人事件の公訴時効は撤廃された。本事件は2022年現在も捜査継続中である。
警視庁のホームページ(下記)によれば、1996年2月下旬の夜、現場マンホール前で工事用のバリケードを出し、側にワゴン車を停車している男性が目撃されていたとのことで、事件の真相を知っている可能性があるとして情報提供を呼びかけている。
【リンク】
警視庁による情報提供呼びかけページは以下。
https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/jiken_jiko/ichiran/ichiran_10/181.html
【その他の事件】
江戸川区篠崎ポンプ所身元不明女性バラバラ殺人事件(1988年)
殺害後に死体をバラバラにしてマンホール内に遺棄した結果、汚水処理場へと流れ着いたとみられる事件。被害者の身元は特定されていない。迷宮入り。
【出典】
朝日新聞1997年1月15日「マンホール下に女性の遺体 東京・多摩市」
毎日新聞1997年1月15日「マンホール内に女性の変死体 行方不明の保母か 東京・多摩市」
読売新聞1997年1月15日「マンホールに女性の変死体/東京・多摩」
朝日新聞1997年1月16日「マンホール内の遺体、失跡の保母 自宅に無言電話数回 東京・多摩」
産経新聞1997年1月16日「マンホール女性遺体 失跡保母と断定 交友関係のトラブルか 多摩」
産経新聞1997年1月16日「多摩市の保母殺害 失跡前、男性出入り 自宅でトラブルか」
毎日新聞1997年1月16日「マンホール死体、行方不明の保母と確認 東京・多摩」
読売新聞1997年1月16日「マンホールの遺体、失跡保母と断定/東京・多摩」
毎日新聞1997年1月20日「多摩の保母殺人 発見から1週間 初の担当「年長組」卒園式控え…」
産経新聞1997年2月1日「多摩の保母殺人 消えた日記に犯人の手掛かり?」
産経新聞1997年2月10日「多摩の保母マンホール殺人 知人の40代男性聴取 交際めぐりトラブル?警視庁」
産経新聞1997年2月11日「裏付け捜査急ぐ 多摩の保母殺人」
東京新聞1997年12月24日「多摩保母マンホール殺人事件 背中ににじむ父の無念」