2004年3月24日午後18時頃、福岡県北九州市引野口の古賀俊一さん(58歳)方から出火。木造平家住宅約140平方メートルは全焼し、焼け跡から古賀さんの遺体が発見された。しかし、遺体は煙を吸い込んだ形跡がほとんど無く、刃物による刺し傷も確認され、警察は他殺と自殺の両面で捜査を開始する。

【実妹逮捕】
 同年5月23日、古賀さんの実妹A(56歳)が窃盗の疑いで逮捕される。容疑は火災翌日の3月25日に福岡市内のATMで古賀さんの預金口座から500万円を引き出したというもの。古賀さんの財産は死亡後に遺産として妻と子どもに対して相続されるため、妹のAが無断で引き出すと窃盗に該当するのである。

 7月1日、威力業務妨害の疑いでAを再逮捕。古賀さんの妻は、古賀さんの実家の離れの建物を使って学習塾を経営していたのだが、2002年3月にAとその叔父が工事業者に依頼して建物内に壁を設置させた。壁の設置により建物内の部屋と部屋の移動が不可能となり、また廊下にあるトイレにも行けなくなった。こうして塾は経営できなくなり、2002年6月に閉鎖を余儀なくされる。なんだか無茶苦茶な話だが、この過去の一件が威力業務妨害に問われた。

 Aはいずれの容疑も否認。窃盗罪については、アルコール依存症で体の不自由な古賀さんを介護する中で口座の管理を任されており、引き出したのも古賀さんの娘の学費に充てるため引き出したもので盗むつもりはなかったという。威力業務妨害罪についても、家の改装は前から決まっていて塾の経営を妨害する意図ではないと述べる。その上で、古賀さん殺害の犯人として取り調べるための別件逮捕だと主張した。

【告白】
 10月3日、古賀さんを刺殺した容疑で3度目の逮捕。10月25日、古賀さん宅に灯油を撒いて火を付けた非現住建造物等放火容疑で4度目の逮捕。

 現場が全焼したことにより物証がほとんど無い中で、警察がAが殺人犯と断定した証拠は一体何だったのか。それは、Aが留置場で同じ房にいた20代女性Mにした"告白"だった。Aは女性Mと親しくなって推理小説の話をしているうちに、「ライター1本であそこまで燃えるとは思わなかった」、「殺すつもりで殺したわけじゃない」、「本当は2回刺した」、「首を刃物で刺した」などと連日に渡って自らペラペラと話し出したのだという。

 古賀さんの遺体の司法解剖の結果、胸に刺し傷があることが報道発表されていたが、首に関してはやけどや火事で焼け落ちた物がぶつかったような跡が確認されただけで、何らの言及もしていなかった。そのような状況において「首を刺した」という証言は犯人しか知り得ない情報であり、いわゆる"秘密の暴露"が含まれ、それはすなわちAこそが殺人犯であることを示す、というのが検察側のロジックであった。

【公判】
 検察は、Aが古賀さん夫妻と不仲になり、財産を独占してやろうとして犯行に及んだと主張。放火は証拠隠滅のためとした。「自己中心的で身勝手極まりない動機」として懲役18年を求刑。

 弁護側は容疑を全面否認し無罪主張。捜査手法に関しても「Mは警察がAから話を聞き出すために送り込んだスパイ」などと言及し、「違法な捜査に基づく証人の採用は認められない」とした。

【判決】
 2008年3月5日、福岡地裁判決。窃盗と業務威力妨害について有罪、殺人罪と放火について無罪。懲役1年6カ月・執行猶予3年とした。

 まず、威力業務妨害罪については、壁を設置すれば塾がマトモに経営できなくなることは明らかに認識でき、古賀さんの妻の承諾も得ないままに壁の設置を強行したことは悪質な犯行と認定。窃盗罪についても、古賀さん本人の生前の意思が明らかでない中で、500万円という多額の現金を本来の相続者に知らせることなく勝手に引き出すことの違法性は顕著であるとした。

 一方で、殺人と放火容疑については、Aが"告白"をしたことそれ自体は概ね事実と認定しながらも、その内容の信用性の低さから証拠とは認めず、警察の捜査手法について激しく批判を加えた。すなわち、Aを本来であれば拘置所に移送すべきであったタイミングでそれをせず、定員2人の警察署内の代用監獄を意図的に使い、82日間もMと同房にして違法な取り調べが行われた、としたのである。

 覚醒剤取締法違反容疑者の立場だったMは、警察からAとの会話に関して質問を受けるうちに、「自分はAから決定的な証言を引き出すことを警察から期待されている」と認識した。県警幹部もまたそうした期待があったことを認めている。これは正しく弁護側が指摘する"スパイ"の構図であった。

 そうしてMは証言を引き出すための質問を連日Aにぶつけるようになり、答えは逐一警察へと報告された。もちろんAはそのことを知らない。しかもこの間、M自身の容疑に関する取り調べはほとんど行われていなかった。Mは捜査に協力することで自分の事件に手加減を加えてもらえると考えるかもしれない。実に危うい状況だ。

 判決は、同房となった者から容疑者との会話内容などを参考聴取することは一般的にあり得るとしつつ、本件のそれは参考聴取といえるものではなく、自身も捜査を受ける立場であるMが積極的に聴取に関わることは、警察捜査に迎合して虚偽自白を誘発しかねない不当な方法であり、その結果得られた犯行告白に任意性は無いと強調した。

 さらに、遺体の首に残った傷も、各種鑑定の結果から刃物によって付けられたと認定するには合理的な疑いが残るとされた。つまり、そもそも「首を刃物で刺した」とするAの告白も、犯人しか知らない秘密の暴露にはあたらないということになる。

【家族】
 地裁判決後、Aは直ちに釈放された。逮捕から約3年9か月が経過していた。報道陣からの「家に帰ったら、まずは何をしたいか」という問いかけに、Aは「亡くなった主人の仏壇に報告をしたい」と答えている。Aの夫は心労からか妻の逮捕から11日後に自殺していたのである。

 地獄の中の一筋の光は、無罪を信じ続けた3人の子どもたちだった。子どもたちはアルコール中毒に苦しむ古賀さんを献身的に介護する母の姿をその目で見ており、殺人・放火などするはずがないと確信していた。特に、長男は母に心配をかけないように黙って会社を辞め、支援活動に専念していた。自ら現場周辺での聞き込みを行い、さらには「首の傷は刃物の傷」という鑑定結果を覆してくれる医師を探し出したという。

 長男は事件後に「無罪を勝ち取ったが、私たち家族は一生消えない傷を背負った」とコメントしている。

【結末】
 福岡地検は控訴を断念。一審判決が確定した。また、Aには身柄拘束された1337日分の刑事補償約1671万円と裁判費用374万円の補償金が支払われた。なお、Aは不当捜査を理由とした国賠訴訟も検討していたが、密室で取り調べられた内容を立証するのが難しいという理由で断念している。

 県警本部長は「捜査には全力を尽くした」とし、「捜査手法の問題点については判決の指摘を真摯に受け止め、適正な捜査に努める」と総括した。Aに対する謝罪は最後までなかった。古賀さんを殺害・放火した犯人は不明のままである。

 最後に、Aは自分を貶めたMに対して「裁判が終わるまでに『証言はウソでした』と言ってくれることを期待していたけど叶いませんでした」と語っている。

【判決文】
 福岡地裁平成20年3月5日(わ)第501号

【出典】
 毎日新聞2004年3月25日「3棟全半焼、1人が死亡ーー北九州・八幡西区」
 毎日新聞2004年3月25日「遺体に外傷ーー北九州・八幡の火事」
 読売新聞2004年3月25日「住宅火災、1人死亡 3棟全半焼/北九州・八幡西」
 読売新聞2004年3月25日「北九州・八幡の火事 焼け跡の遺体に不審点」
 毎日新聞2004年3月26日「焼け跡の遺体は刺し傷が致命傷ーー北九州・八幡西区の火事」
 読売新聞2004年3月26日「八幡西の火災 焼け跡の遺体に刺し傷/福岡県警」
 毎日新聞2004年3月27日「北九州・八幡西区の火災、遺体は古賀さん」
 読売新聞2004年3月27日「八幡西の火災 遺体身元確認」
 毎日新聞2004年4月14日「福岡県・八幡西区の民家焼け跡に遺体 殺人事件と断定ーー刺した後に放火」
 毎日新聞2004年6月8日「北九州・八幡の火事 被害者の預金引き出す 窃盗容疑で親族の女逮捕」
 読売新聞2004年6月8日「北九州・八幡西の火事 死亡男性の預金引き出す 親族女性を詐欺容疑で逮捕」
 読売新聞2004年6月14日「北九州・八幡の火災男性遺体 兄翌日500万円引き出す 妹を窃盗罪起訴」
 毎日新聞2004年6月15日「北九州・八幡の火事 焼死者の妹を窃盗罪で起訴」
 毎日新聞2004年7月6日「北九州・八幡の火災に絡み、実妹を業務妨害容疑で再逮捕」
 毎日新聞2004年7月9日「北九州・八幡西区の火災 焼死体男性の妹、不当逮捕を主張ーー地裁小倉支部初公判」
 読売新聞2004年7月9日「兄の口座500万円窃盗被告 初公判、「別件逮捕」と棄却を求める」
 読売新聞2004年8月14日「死亡した兄の現金引き出し 被告が無罪を主張 地裁小倉公判=福岡」
 読売新聞2004年9月25日「「放火殺人」にからむ威力業務妨害罪 被告、控訴棄却求める=福岡」
 毎日新聞2004年10月4日「北九州・八幡西区の民家全焼 殺人容疑で妹を再逮捕」
 読売新聞2004年10月4日「火災跡に男性遺体 妹を殺人容疑で再逮捕/北九州・八幡西」
 読売新聞2004年10月23日「北九州・八幡西の刺殺事件 殺人容疑の妹、放火で再逮捕へ」
 毎日新聞2004年10月26日「北九州・八幡西区の放火殺人 放火容疑で妹を再逮捕」
 読売新聞2004年10月26日「北九州市で兄刺殺容疑の妹、放火容疑再逮捕/福岡県警」
 読売新聞2004年11月17日「北九州・八幡西の殺人、放火事件 妹を放火で追起訴=福岡」
 毎日新聞2004年12月18日「北九州・八幡西区の放火殺人 被告「首を刺した」ーー拘置中、女性に告白」
 読売新聞2004年12月18日「北九州・八幡西放火殺人 A被告「首を刺した」留置場で女性に告白」
 読売新聞2004年12月21日「北九州・八幡西放火殺人 「留置場で女性に犯行告白」 A被告、公判で否認」
 毎日新聞2005年2月1日「北九州・八幡西区の放火殺人:関与認めるメモ、同房女性に渡すーーA被告」
 読売新聞2005年2月1日「北九州・八幡西の放火殺人事件 殺人告白聞いた女性が公判で詳細証言/福岡地裁」
 読売新聞2005年3月24日「八幡西の殺人放火事件 警察官3人が公判で「捜査適正」と証言=北九州」
 毎日新聞2007年10月11日「北九州・八幡西区の放火殺人:物証なき事件に18年求刑「犯行自白」頼る検察」
 読売新聞2007年10月11日「八幡西に放火殺人事件 A被告に懲役18年求刑 地裁論告公判=北九州」
 毎日新聞2007年11月13日「北九州・八幡西区の放火殺人:「違法に告白収集」弁護側、冤罪主張ーー地裁最終弁論」
 読売新聞2007年11月13日「北九州の放火殺人 冤罪主張し結審 弁護側「同房女性証言はねつ造」
 読売新聞2008年3月2日「「兄刺し放火」と聞いた 同房者の証言どう判断 福岡地裁小倉で5日判決」
 朝日新聞2008年3月5日「殺人・放火に無罪判決「犯行告白」同房者証言認めず 福岡地裁小倉支部」
 朝日新聞2008年3月5日「同房者利用、捜査を指弾 被告「最初から犯人扱い」八幡西・殺人放火無罪」
 読売新聞2008年3月5日「放火殺人に無罪 告白の信用性否定 福岡地裁小倉支部「同房者使い不当捜査」
 読売新聞2008年3月5日「北九州の放火殺人判決 「無罪」信じていた母と子、歓喜の涙」
 読売新聞2008年3月5日「北九州の放火殺人無罪判決 同房者から情報に警鐘「虚偽供述招く恐れ」」
 朝日新聞2008年3月6日「同房者聴取、被告事件に集中 八幡西・殺人放火無罪」
 読売新聞2008年3月6日「殺人・放火の無罪判決「同房者、警察迎合も」強引捜査にまた批判」
 読売新聞2008年3月7日「放火殺人無罪判決 A被告「兄の墓参りしたい」支援者ら控訴断念求め上京へ」
 読売新聞2008年3月14日「北九州の殺人・放火事件 検察が控訴断念方針 被告の無罪確定へ」
 朝日新聞2008年3月20日「殺人放火、無罪が確定 福岡地検、控訴を断念」
 毎日新聞2008年3月20日「北九州・八幡西区の殺人放火:Aさんの無罪確定 地検、控訴せず」
 読売新聞2008年3月20日「殺人・放火、Aさん無罪確定 検察は控訴せず 補償請求へ」
 朝日新聞2008年4月1日「Aさんが刑事補償請求 八幡西・殺人放火無罪」
 毎日新聞2008年4月1日「北九州・八幡西区の殺人放火:無罪確定のAさん、刑事補償請求 上限額1728万円」
 読売新聞2008年4月1日「殺人・放火無罪 刑事補償を請求/福岡地裁支部」
 毎日新聞2008年6月4日「北九州・八幡西区の殺人放火:県警本部長、謝罪せず Aさん無罪「残念な判決」」
 読売新聞2008年6月4日「放火・殺人事件 県警本部長謝罪なし 傍聴のAさん「非常に残念」=福岡」
 朝日新聞2008年9月20日「殺人放火無罪の元被告に、刑事補償金交付 地裁小倉支部決定」
 毎日新聞2008年9月20日「北九州・八幡西区の殺人放火:Aさんに刑事補償金 無罪確定で地裁小倉」
 読売新聞2008年9月20日「北九州の殺人・放火事件 無罪女性に補償金1671万円/福岡地裁支部」
 毎日新聞2008年9月27日「北九州・八幡西区の殺人放火:無罪のAさん、国賠請求を断念」
 読売新聞2008年9月27日「北九州の殺人・放火無罪 Aさん、国賠訴訟を断念」