1990年3月26日午前11時15分頃、広島県警西条署に「小学校教諭をしている夫が教え子の小学6年生女児を殺し、東広島駅へ向かった」と通報があった。
県警は同駅へ急行。現れた小学校教諭の河内武志(38歳)に事情を聞いたところ、教え子を殺したことを認めた。そして駅前に停められた同教諭所有のワゴン車から女児の遺体が発見されたため、殺人容疑で緊急逮捕した。
殺害された女児Kさん(12歳)は河内が担任をしていたクラスの生徒で、23日に小学校を卒業したばかりだった。
【子どもたちは見た】
河内が広島県の豊田郡安浦町立安登小学校に赴任したのは1987年4月のこと。当時小学4年生だったKさんの所属するクラスを受け持ち、以後彼女が卒業するまで担任を務め続けた。河内は熱血タイプな先生として学校からも保護者からも評判は良かったという。
そんな河内に悪い噂が立ち始めたのは1989年9月頃。河内は教室内の比較的目立ちにくい場所でKさんの唇に口づけをした。Kさんはとっさに拒むことができず、河内は行為が受け入れられていると勝手に思い込んだ。元々、女子児童をひいきする傾向のあった河内だが、これ以後、学級委員や児童会副会長などを務めて目立つ存在だったKさんをターゲットに定める。
行為はどんどんエスカレートし、自らの膝に乗せて尻を撫で回したり、胸に手を入れて触ったり、体操服をめくりあげて乳首を吸ったり、パンティの下に手を入れて陰部を触ったりした。クラスの児童たちもそういったいかがわしい行為に気付いてはいたが、河内は教室内での出来事を家庭内で話すことを厳禁しており、それを破れば激しい体罰が予想されたため保護者らに言い出すことができなかった。
そんな中、1990年3月9日、学校の音楽室に置かれた河内の私物のカセットデッキに、河内がKさんらしき女児にいたずらしているような音声が記録されていることを一人の男子児童が発見した。この録音はいつ誰が何のために行ったのかよく分かっていない。ともかく録音の存在を知った教え子(主に男児)たちは、"先生をやっつけるための証拠品"として当該録音テープをダビングして回し持つようになった。
やがて録音テープの存在は保護者たちにも知られるようになり、一部の保護者は「一人で河内先生についていってはダメ。後ろに立たれたら逃げるように」などと我が子に注意していたという。
【追い詰められた男】
1990年3月19日、ある保護者が録音テープについて安登小学校校長に相談。21日、校長が生徒たちにヒアリングを行うと「河内先生はKさんばかり特別にひいきする」、「キスや変なことをしている」、「暴力をふるうことがある」といった証言が次々と飛び出した。
卒業式を終えた23日と翌24日、教育委員会の教育長と校長が河内に対して事情を聞く。河内は「かわいいKさんに特別な好意をもっていた」と述べ、自らの猥褻行為を認めた。その場で自宅謹慎が指示され、河内は24日付で顛末書と辞職願を提出する。
【どこまでも身勝手な男】
3月26日、春休み中のKさんは、両親が共働きのため、家事をしながら妹と一緒に留守番をしていた。そこに謹慎中の河内が単身訪れ、「学校のことで話がある」と連れ出された。Kさんは両親に電話で一報を入れたのだが、両親は河内の"いたずら"について学校から全く知らされていなかったため、外出を許可してしまう。
学校近くの海岸に着くと、河内は自身の行為について謝罪を始める。Kさんは河内の猥褻行為が「嫌だった」と率直に答えた。てっきり猥褻行為を受け入れられていると思った河内はこれに驚いたらしい。やがて河内は録音テープが既に出回っていることからも、Kさんがこれからずっと中傷を受けて苦しむではないかと思い込み、自らの手で首を絞めて殺すことにした。なんとまぁ身勝手な理由だろうか。
そして殺害後、河内は自らの妻に「大変なことをしてしまった」と電話で告白し、上述のとおり逮捕されるに至る。
Kさんの両親は河内の問題行為について報告しなかった学校を批判した。それに対して学校側は、25日に校長が説明に訪れたが、両親が不在だったために報告できなかった、などと言い訳を並べるばかり。両親は「本当に子どもたちのことを思っているのだったら、夜に電話で報告することもできたはずだ」と述べる。実際、学校から迅速かつ適切な報告がなされていれば、本事件は防げていた可能性が高い。できる限りコトを小さく済ませようとする学校の態度によって、事件はより大きく凄惨なものになってしまったのだから実に皮肉的である。
河内は27日付で懲戒免職処分。校長も引責辞任した。
【裁判】
公判で、弁護側は事件を大筋で認めつつ、事件は発作的に起きたもので殺意は無かったとし、「教師をやめなければならない」という不安から精神耗弱状態に陥っていたとして減刑を求めた。検察側は「前代未聞の事件で犯行は余りにも自己中心的。社会的影響も大きい」として懲役15年を求刑した。
1991年4月10日、広島地裁判決。懲役13年。判決は河内の責任能力を認め、「『被害者も将来に悲観しているはず。命を奪った方が被害者のため』と決めつけて及んだ犯行は、あまりにも惨たらしく独善的な思い込みで短絡的」と述べる。そして「被告を信頼していた被害者が、首に手をかけられた時の恐怖は想像を絶する」と断罪した。双方控訴せず、判決は確定。
【損害賠償】
その後、Kさんの両親は国家賠償法に基づき、県と町を相手に総額5000万円の損害賠償を求める訴訟を起こした。争点は河内による猥褻行為と殺害行為が"職務"にあたるかどうかである。これら行為が職務の範囲にあると認定されれば、県と町には監督責任が求められる。
1993年3月19日、広島地裁判決では、まず猥褻行為について「担任の教諭の地位を利用し、授業に関連した機会に教室内で猥褻行為をしており、その行為は職務の外形を備えている」とした。さらに殺害行為についても「謝罪のために女児宅を訪れたことは職務に含まれ、「学校のことで用がある」と連れ出したのは職務を行うにつき成した行為である」と認定。以上、原告側の主張は全面的に認められ、既に支払い済みの約3000万円を控除した約2304万円を支払うことが命じられた。県と町は控訴せず確定。
なお、件の録音テープは全部で5本ダビング作成されていたのだが、校長はそれらを全て回収してそのうち4本を「教育的配慮から」独断で処分し、残った1本だけを教育委員会に提出していた。その残された1本は証拠として裁判所に提出されるも、公判中に再生された際、保護者たちは「オリジナルのテープと異なるのではないか」と指摘した。裁判長も提出されたテープが編集されていることを確認し、河内のいたずらの事実を隠すために改竄した疑いがあると認定した。結局、最後まで学校側の態度には不信感が拭えなかった。
【汚された思い出】
殺害されたKさんは卒業文集の寄せ書きで、将来の夢として「小学校の先生になりたい」と書いていた。また6年間の思い出について書いた作文では「苦手だった音楽の授業を好きになったのは河内先生のおかげ」といった趣旨のことを書いている。そんな少女の明るい将来は、あろうことか慕っていた先生の手で永遠に閉ざされてしまったのだからやるせない。
1991年7月、Kさんの同級生たちのもとへ完成した卒業アルバムが届けられた。「現実を隠してはいけない」という学校の方針により、音楽会で指揮をしたり、修学旅行に引率する河内の写真もそのまま載せられた。しかしKさんの友人たちは彼の写真をマジックペンでぐちゃぐちゃに塗りつぶしたり、ハサミで切り刻むなどした、と伝えられている。
【判決文】
損害賠償請求事件 広島地裁平成3年(ワ)第105号
【出典】
朝日新聞1990年3月26日「小学教諭が小6を殺害 広島」
読売新聞1990年3月26日「教師、教え子の小学六年生女児を殺す/広島」
朝日新聞1990年3月27日「先生を慕ってたのに…「将来は教師」担任に絞殺された生徒」
朝日新聞1990年3月27日「「無理心中図り生徒殺す」女児殺しで教師供述」
読売新聞1990年3月27日「広島の教え子殺し いたずらで教師は謹慎の身 「先生になる…」少女無惨」
朝日新聞1990年3月28日「河内容疑者を送検 広島の教え子殺人」
朝日新聞1990年3月30日「遅すぎた対応、募る学校不審 広島の教え子殺し」
読売新聞1990年3月31日「教え子殺害の元小学教師 留置所内で自殺図る/広島」
朝日新聞1990年4月1日「留置所の壁に自分で頭打つ 広島の教え子殺人の元教諭」
朝日新聞1990年4月11日「えこひいき"告発"テープ 教え子殺害事件前 広島・安登小」
朝日新聞1990年4月17日「「かわいく自制失った」教え子殺しの容疑者起訴」
読売新聞1990年4月17日「広島の教え子殺人 元小学校教諭を起訴」
読売新聞1990年4月22日「小学校教諭の教え子殺し 問われる閉鎖的体質 教育評論家・遠藤豊吉さんに聞く」
朝日新聞1990年5月30日「心神耗弱を主張 広島の教え子殺し初公判」
読売新聞1990年5月30日「広島の教え子殺人、起訴事実を認める」
朝日新聞1991年3月6日「教え子殺人の元小学教諭に懲役15年求刑 広島地裁で初公判」
朝日新聞1990年4月10日「教え子殺人の元教諭に懲役13年 広島地裁判決」
朝日新聞1990年4月10日「教え子殺しに懲役13年「あまりに短絡的」広島地裁判決」
朝日新聞1991年4月10日「教委を相手に両親が賠償請求へ 広島の教え子殺人事件」
読売新聞1991年4月10日「広島・教え子殺し、懲役13年 悲しみいえぬ両親「判決軽すぎる」」
読売新聞1991年4月10日「 教え子殺しに懲役13年「無念さ、想像絶する」/広島地裁判決」
読売新聞1991年4月11日「広島の教え子殺人 両親が県・町に賠償請求へ」
読売新聞1991年4月26日「広島の教え子殺人 懲役13年確定 元教諭控訴せず」
朝日新聞1991年6月15日「教師の監督、県・町は怠る 広島の教え子殺し、賠償提訴へ」
読売新聞1992年9月5日「教え子殺人賠償訴訟「いたずら」証拠テープ、改ざんの疑い/広島地裁呉支部」
朝日新聞1993年3月19日「2304万円の賠償命令 元教諭の教え子殺害で県と町に 広島」
読売新聞1993年3月19日「元教諭の教え子殺人事件 学校業務と関連認定 広島地裁、県町に賠償命令」
朝日新聞1993年3月27日「広島県と町、控訴を断念 教え子殺害事件の賠償請求訴訟」
県警は同駅へ急行。現れた小学校教諭の河内武志(38歳)に事情を聞いたところ、教え子を殺したことを認めた。そして駅前に停められた同教諭所有のワゴン車から女児の遺体が発見されたため、殺人容疑で緊急逮捕した。
殺害された女児Kさん(12歳)は河内が担任をしていたクラスの生徒で、23日に小学校を卒業したばかりだった。
【子どもたちは見た】
河内が広島県の豊田郡安浦町立安登小学校に赴任したのは1987年4月のこと。当時小学4年生だったKさんの所属するクラスを受け持ち、以後彼女が卒業するまで担任を務め続けた。河内は熱血タイプな先生として学校からも保護者からも評判は良かったという。
そんな河内に悪い噂が立ち始めたのは1989年9月頃。河内は教室内の比較的目立ちにくい場所でKさんの唇に口づけをした。Kさんはとっさに拒むことができず、河内は行為が受け入れられていると勝手に思い込んだ。元々、女子児童をひいきする傾向のあった河内だが、これ以後、学級委員や児童会副会長などを務めて目立つ存在だったKさんをターゲットに定める。
行為はどんどんエスカレートし、自らの膝に乗せて尻を撫で回したり、胸に手を入れて触ったり、体操服をめくりあげて乳首を吸ったり、パンティの下に手を入れて陰部を触ったりした。クラスの児童たちもそういったいかがわしい行為に気付いてはいたが、河内は教室内での出来事を家庭内で話すことを厳禁しており、それを破れば激しい体罰が予想されたため保護者らに言い出すことができなかった。
そんな中、1990年3月9日、学校の音楽室に置かれた河内の私物のカセットデッキに、河内がKさんらしき女児にいたずらしているような音声が記録されていることを一人の男子児童が発見した。この録音はいつ誰が何のために行ったのかよく分かっていない。ともかく録音の存在を知った教え子(主に男児)たちは、"先生をやっつけるための証拠品"として当該録音テープをダビングして回し持つようになった。
やがて録音テープの存在は保護者たちにも知られるようになり、一部の保護者は「一人で河内先生についていってはダメ。後ろに立たれたら逃げるように」などと我が子に注意していたという。
【追い詰められた男】
1990年3月19日、ある保護者が録音テープについて安登小学校校長に相談。21日、校長が生徒たちにヒアリングを行うと「河内先生はKさんばかり特別にひいきする」、「キスや変なことをしている」、「暴力をふるうことがある」といった証言が次々と飛び出した。
卒業式を終えた23日と翌24日、教育委員会の教育長と校長が河内に対して事情を聞く。河内は「かわいいKさんに特別な好意をもっていた」と述べ、自らの猥褻行為を認めた。その場で自宅謹慎が指示され、河内は24日付で顛末書と辞職願を提出する。
【どこまでも身勝手な男】
3月26日、春休み中のKさんは、両親が共働きのため、家事をしながら妹と一緒に留守番をしていた。そこに謹慎中の河内が単身訪れ、「学校のことで話がある」と連れ出された。Kさんは両親に電話で一報を入れたのだが、両親は河内の"いたずら"について学校から全く知らされていなかったため、外出を許可してしまう。
学校近くの海岸に着くと、河内は自身の行為について謝罪を始める。Kさんは河内の猥褻行為が「嫌だった」と率直に答えた。てっきり猥褻行為を受け入れられていると思った河内はこれに驚いたらしい。やがて河内は録音テープが既に出回っていることからも、Kさんがこれからずっと中傷を受けて苦しむではないかと思い込み、自らの手で首を絞めて殺すことにした。なんとまぁ身勝手な理由だろうか。
そして殺害後、河内は自らの妻に「大変なことをしてしまった」と電話で告白し、上述のとおり逮捕されるに至る。
Kさんの両親は河内の問題行為について報告しなかった学校を批判した。それに対して学校側は、25日に校長が説明に訪れたが、両親が不在だったために報告できなかった、などと言い訳を並べるばかり。両親は「本当に子どもたちのことを思っているのだったら、夜に電話で報告することもできたはずだ」と述べる。実際、学校から迅速かつ適切な報告がなされていれば、本事件は防げていた可能性が高い。できる限りコトを小さく済ませようとする学校の態度によって、事件はより大きく凄惨なものになってしまったのだから実に皮肉的である。
河内は27日付で懲戒免職処分。校長も引責辞任した。
【裁判】
公判で、弁護側は事件を大筋で認めつつ、事件は発作的に起きたもので殺意は無かったとし、「教師をやめなければならない」という不安から精神耗弱状態に陥っていたとして減刑を求めた。検察側は「前代未聞の事件で犯行は余りにも自己中心的。社会的影響も大きい」として懲役15年を求刑した。
1991年4月10日、広島地裁判決。懲役13年。判決は河内の責任能力を認め、「『被害者も将来に悲観しているはず。命を奪った方が被害者のため』と決めつけて及んだ犯行は、あまりにも惨たらしく独善的な思い込みで短絡的」と述べる。そして「被告を信頼していた被害者が、首に手をかけられた時の恐怖は想像を絶する」と断罪した。双方控訴せず、判決は確定。
【損害賠償】
その後、Kさんの両親は国家賠償法に基づき、県と町を相手に総額5000万円の損害賠償を求める訴訟を起こした。争点は河内による猥褻行為と殺害行為が"職務"にあたるかどうかである。これら行為が職務の範囲にあると認定されれば、県と町には監督責任が求められる。
1993年3月19日、広島地裁判決では、まず猥褻行為について「担任の教諭の地位を利用し、授業に関連した機会に教室内で猥褻行為をしており、その行為は職務の外形を備えている」とした。さらに殺害行為についても「謝罪のために女児宅を訪れたことは職務に含まれ、「学校のことで用がある」と連れ出したのは職務を行うにつき成した行為である」と認定。以上、原告側の主張は全面的に認められ、既に支払い済みの約3000万円を控除した約2304万円を支払うことが命じられた。県と町は控訴せず確定。
なお、件の録音テープは全部で5本ダビング作成されていたのだが、校長はそれらを全て回収してそのうち4本を「教育的配慮から」独断で処分し、残った1本だけを教育委員会に提出していた。その残された1本は証拠として裁判所に提出されるも、公判中に再生された際、保護者たちは「オリジナルのテープと異なるのではないか」と指摘した。裁判長も提出されたテープが編集されていることを確認し、河内のいたずらの事実を隠すために改竄した疑いがあると認定した。結局、最後まで学校側の態度には不信感が拭えなかった。
【汚された思い出】
殺害されたKさんは卒業文集の寄せ書きで、将来の夢として「小学校の先生になりたい」と書いていた。また6年間の思い出について書いた作文では「苦手だった音楽の授業を好きになったのは河内先生のおかげ」といった趣旨のことを書いている。そんな少女の明るい将来は、あろうことか慕っていた先生の手で永遠に閉ざされてしまったのだからやるせない。
1991年7月、Kさんの同級生たちのもとへ完成した卒業アルバムが届けられた。「現実を隠してはいけない」という学校の方針により、音楽会で指揮をしたり、修学旅行に引率する河内の写真もそのまま載せられた。しかしKさんの友人たちは彼の写真をマジックペンでぐちゃぐちゃに塗りつぶしたり、ハサミで切り刻むなどした、と伝えられている。
【判決文】
損害賠償請求事件 広島地裁平成3年(ワ)第105号
【出典】
朝日新聞1990年3月26日「小学教諭が小6を殺害 広島」
読売新聞1990年3月26日「教師、教え子の小学六年生女児を殺す/広島」
朝日新聞1990年3月27日「先生を慕ってたのに…「将来は教師」担任に絞殺された生徒」
朝日新聞1990年3月27日「「無理心中図り生徒殺す」女児殺しで教師供述」
読売新聞1990年3月27日「広島の教え子殺し いたずらで教師は謹慎の身 「先生になる…」少女無惨」
朝日新聞1990年3月28日「河内容疑者を送検 広島の教え子殺人」
朝日新聞1990年3月30日「遅すぎた対応、募る学校不審 広島の教え子殺し」
読売新聞1990年3月31日「教え子殺害の元小学教師 留置所内で自殺図る/広島」
朝日新聞1990年4月1日「留置所の壁に自分で頭打つ 広島の教え子殺人の元教諭」
朝日新聞1990年4月11日「えこひいき"告発"テープ 教え子殺害事件前 広島・安登小」
朝日新聞1990年4月17日「「かわいく自制失った」教え子殺しの容疑者起訴」
読売新聞1990年4月17日「広島の教え子殺人 元小学校教諭を起訴」
読売新聞1990年4月22日「小学校教諭の教え子殺し 問われる閉鎖的体質 教育評論家・遠藤豊吉さんに聞く」
朝日新聞1990年5月30日「心神耗弱を主張 広島の教え子殺し初公判」
読売新聞1990年5月30日「広島の教え子殺人、起訴事実を認める」
朝日新聞1991年3月6日「教え子殺人の元小学教諭に懲役15年求刑 広島地裁で初公判」
朝日新聞1990年4月10日「教え子殺人の元教諭に懲役13年 広島地裁判決」
朝日新聞1990年4月10日「教え子殺しに懲役13年「あまりに短絡的」広島地裁判決」
朝日新聞1991年4月10日「教委を相手に両親が賠償請求へ 広島の教え子殺人事件」
読売新聞1991年4月10日「広島・教え子殺し、懲役13年 悲しみいえぬ両親「判決軽すぎる」」
読売新聞1991年4月10日「 教え子殺しに懲役13年「無念さ、想像絶する」/広島地裁判決」
読売新聞1991年4月11日「広島の教え子殺人 両親が県・町に賠償請求へ」
読売新聞1991年4月26日「広島の教え子殺人 懲役13年確定 元教諭控訴せず」
朝日新聞1991年6月15日「教師の監督、県・町は怠る 広島の教え子殺し、賠償提訴へ」
読売新聞1992年9月5日「教え子殺人賠償訴訟「いたずら」証拠テープ、改ざんの疑い/広島地裁呉支部」
朝日新聞1993年3月19日「2304万円の賠償命令 元教諭の教え子殺害で県と町に 広島」
読売新聞1993年3月19日「元教諭の教え子殺人事件 学校業務と関連認定 広島地裁、県町に賠償命令」
朝日新聞1993年3月27日「広島県と町、控訴を断念 教え子殺害事件の賠償請求訴訟」