1985年3月8日未明、兵庫県芦屋市の住宅に男が押し入り、居間で就寝中だった男の子(6歳)を連れ去った。その後、男から5000万円を要求する電話がかかり、兵庫県警は身代金目的の誘拐事件と断定して捜査を開始する。
【大胆な誘拐】
1985年3月8日午前4時20分頃、兵庫県芦屋市のWさん宅に一人の男が押し入った。
住宅2階の居間では母親、次男(6歳)、長女(3歳)が一緒に寝ており、侵入してきた男はまず母親にエーテルを含ませたタオルを押しつけたが、母親は目を覚まし「助けて」と大声をあげる。男は慌てて側にいた次男を抱き抱えると、そのまま部屋から飛び出していった。
隣の部屋で寝ていた父親も目を覚まして男を追ったが、男は住宅から150メートルほど進んだ地点に停めてあった白い車に乗り込んで逃走してしまった。父親はどうにか車のナンバーを読み取ることに成功し、すぐに家に戻ると「泥棒が入って息子が連れ去られた」と通報した。
【取引】
同日午前11時19分頃、「子どもを預かっている。5000万円用意しろ」と男の声で電話がかかる。身代金目的の誘拐だった。その後、無言電話も含め数十回もの電話がかかり、その中には「おっちゃんのバカ。おっちゃんのバカ」と次男らしき声が聞こえたこともあった。
そして19時48分、「中国自動車道西宮北インターに20時15分までに行け。必ず一人で来い」と指示がある。いよいよ緊迫の取引が始まった。
男児の父親はバッグに5000万円を詰め、大雨の降る中、マイカーで出発。20時32分、インターに到着。しかし男の姿は無く、今度は「社のパーキングエリア、電話ボックスの一番左側の棚の裏を見ろ」と自宅の方に電話があった。
21時22分、父親は指定された電話ボックスに着くと手書きのメモを発見。「西宮北インターへ戻れ。長尾のバス停のベンチ下を見よ」と書かれており、指示どおりにバス停に向かってベンチ下を見ると、そこには「バス停に金を置け」との指示書があった。
【結末】
父親はバッグを置く。さぁ、誘拐犯よ、どうする。もちろん、周囲では捜査員たちが見張っている。この状況下で金の入ったバッグを奪取するなどほとんど不可能ではないか。
すると次の瞬間、捜査員たちにも全く予想外の展開が起こる。なんと高速道路の反対側の車線から男が飛び出してきたのである。こんな大胆なやり方があるのか。捜査員たちは裏をかかれた。
だが、男は金を奪取することはできなかった。高速道路にタイヤのスキール音が響く。男の体が数十メートルも吹っ飛んでいく。走ってきた一台のトラックが男をはねたのだ。男は脳挫傷、頭蓋骨骨折、右腕骨折などで即死。なんとも劇的で、そしてあまりにもあっけない結末だった。
【救助】
トラックにはねられて死んだ男は、所持していた免許証から保田定美(26歳)と判明。ポケットに入れていたタバコの箱にはWさんの名前、住所、電話番号を書いたメモが挟まれていたことから、男児誘拐犯であると断定された。付近の捜索から、保田は軽自動車と自転車を乗り継いで現場にやって来たらしい。なお、軽自動車も同日に兵庫県内で盗まれたものだった。
Wさん宅に押し入った男は50代くらいだったという証言もあり、保田以外の共犯者がいることも考えられるとして慎重に捜査が行われたが、Wさん宅に残った指紋が保田と一致したことから単独犯と判断。次男の行方を追うべく、3月9日から公開捜査に切り替えられる。そして同日13時過ぎ、現金受け渡し場所から3キロほど離れた地点に停められたダンプの運転席にいる次男が無事に発見された。
捜査員が「W君か?」と尋ねると、次男は「ハイ」と元気に答えた。捜査員がドアのロックの外し方を教えてやると、自分からドアを開けて出てくる。服は泥だらけで裸足になっていたが、特に外傷なども無く経過入院の必要はないと判断され、同日中に我が家へ帰った。37時間ぶりの帰宅だ。その日の夕飯は大好物のお好み焼きだったという。
家に帰る前、警察署にて両親と共に記者会見にも応じている。21世紀ではもうこのような会見が行われることなどないだろう。なんとも時代を感じさせる。記者からの質問に次男は以下のように答えている。
「眠っていたら急に起こされてビックリした。知らないおじちゃんだったから最初はこわかった」、「おじちゃんは一人だけだった」、「サンドイッチとパンとコーラを食べた」、「おじちゃんは最後はお父さんを連れてくるから待ってろと言って、そのまま出ていった」、「家に帰りたかったけど、おじちゃんが怖いから帰してとは言わなかった」、「お父さんとお母さんのことを思い出したけど、でもボクは泣かなかったよ!」
【犯人について】
保田は岡山県の出身。高校を卒業後はトラックの運転手をしていたが、1984年1月に退職。それからは当てもなくぶらぶらとするばかり。碌な収入も無いのに女遊びは止められず、サラ金で借金を重ねた。その額は約470万円。金が尽きてからは実家に戻ったが、落ちぶれた生活を終わらせるために保田が選んだのは定職に就いてやり直すのではなく、資産家の子息を身代金目的で誘拐するという最悪の選択肢だった。
岡山県の保田の家からは犯行計画書が発見されている。そこにはWさん宅で幼児を誘拐すること、中国自動車道へ呼び出し、長尾バス停で向かうように指示することなど、実際の犯行とほぼ同じ内容が書かれていた。こうした手口は同時期に発生したグリコ・森永事件を参考にしたと考えられている。報道では「グリコ・森永事件の模倣犯は相次いでいたが、これほど徹底した手口のものは初めて」と論評されている。資産家のWさん宅についてはトラック運転手の仕事をしているうちに知ったようで、計画書には住居の間取りなども詳しく書かれていたという。
3月27日、身代金目的の誘拐、住居侵入、監禁、窃盗容疑で被疑者死亡のまま書類送検。後に不起訴処分となった。
【その後】
保田をはねて殺したトラック運転手の男性(29歳)は、その場での逮捕は見送られたものの、やがて業務上過失致死容疑で書類送検された。ただし不起訴相当の意見付きで、後日「事故は保田の飛び出しが原因であって、運転手に過失はない」として正式に不起訴処分が決まっている。
また、保田の遺族は自賠責保険の支払いを請求したが、これは認められず、支払いはゼロとなった。
【出典】
朝日新聞1985年3月9日「芦屋で園児誘拐、33時間ぶり保護 5千万円要求の犯人は事故死」
朝日新聞1985年3月9日「身代金の奪取あせる?犯人即死、一度は切れた糸 芦屋の園児誘拐」
朝日新聞1985年3月9日「熟睡の一家襲った犯人 電話1人応対、母の願い通じる 芦屋の園児誘拐」
読売新聞1985年3月9日「園児誘拐、犯人は事故死 兵庫の高速道 身代金奪取の寸前 ダンプ内、無事保護」
読売新聞1985年3月9日「〇〇ちゃん、よかったね 園児誘拐、意表つく展開 目前の犯人、一瞬の死」
読売新聞1985年3月9日「荒い手口、証拠は多い ドキュメント/芦屋市幼児誘拐事件」
朝日新聞1985年3月10日「「いたぞ!」どっと歓声 2千人動員、身を結ぶ 芦屋の園児誘拐事件」
朝日新聞1985年3月10日「サラ金苦、周到な計画 園児誘拐犯人の保田定美」
朝日新聞1985年3月10日「園児誘拐犯人、21面相がヒント?1ヵ月前に現場下見か」
朝日新聞1985年3月10日「誘拐の〇〇ちゃん、無事両親の胸に」
読売新聞1985年3月10日「「ボク泣かなかったよ」〇〇君、37時間ぶり我が家へ/芦屋市幼児誘拐事件」
読売新聞1985年3月10日「「人質取る」と明記 園児誘拐 犯人保田、詳細な計画書/芦屋市幼児誘拐事件」
朝日新聞1985年3月11日「現金運搬車の走行経路、計画書とそっくり 誘拐犯保田、舞台移して指示」
読売新聞1985年3月19日「園児誘拐「保田」の事故死 どうなる?運転手の責任」
朝日新聞1985年3月28日「芦屋の園児誘拐事件、被疑者死亡で送検」
読売新聞1985年3月28日「誘拐犯はねた運転手 不起訴相当で送検へ」
読売新聞1985年5月14日「誘拐犯はねた運転手不起訴」
【大胆な誘拐】
1985年3月8日午前4時20分頃、兵庫県芦屋市のWさん宅に一人の男が押し入った。
住宅2階の居間では母親、次男(6歳)、長女(3歳)が一緒に寝ており、侵入してきた男はまず母親にエーテルを含ませたタオルを押しつけたが、母親は目を覚まし「助けて」と大声をあげる。男は慌てて側にいた次男を抱き抱えると、そのまま部屋から飛び出していった。
隣の部屋で寝ていた父親も目を覚まして男を追ったが、男は住宅から150メートルほど進んだ地点に停めてあった白い車に乗り込んで逃走してしまった。父親はどうにか車のナンバーを読み取ることに成功し、すぐに家に戻ると「泥棒が入って息子が連れ去られた」と通報した。
【取引】
同日午前11時19分頃、「子どもを預かっている。5000万円用意しろ」と男の声で電話がかかる。身代金目的の誘拐だった。その後、無言電話も含め数十回もの電話がかかり、その中には「おっちゃんのバカ。おっちゃんのバカ」と次男らしき声が聞こえたこともあった。
そして19時48分、「中国自動車道西宮北インターに20時15分までに行け。必ず一人で来い」と指示がある。いよいよ緊迫の取引が始まった。
男児の父親はバッグに5000万円を詰め、大雨の降る中、マイカーで出発。20時32分、インターに到着。しかし男の姿は無く、今度は「社のパーキングエリア、電話ボックスの一番左側の棚の裏を見ろ」と自宅の方に電話があった。
21時22分、父親は指定された電話ボックスに着くと手書きのメモを発見。「西宮北インターへ戻れ。長尾のバス停のベンチ下を見よ」と書かれており、指示どおりにバス停に向かってベンチ下を見ると、そこには「バス停に金を置け」との指示書があった。
【結末】
父親はバッグを置く。さぁ、誘拐犯よ、どうする。もちろん、周囲では捜査員たちが見張っている。この状況下で金の入ったバッグを奪取するなどほとんど不可能ではないか。
すると次の瞬間、捜査員たちにも全く予想外の展開が起こる。なんと高速道路の反対側の車線から男が飛び出してきたのである。こんな大胆なやり方があるのか。捜査員たちは裏をかかれた。
だが、男は金を奪取することはできなかった。高速道路にタイヤのスキール音が響く。男の体が数十メートルも吹っ飛んでいく。走ってきた一台のトラックが男をはねたのだ。男は脳挫傷、頭蓋骨骨折、右腕骨折などで即死。なんとも劇的で、そしてあまりにもあっけない結末だった。
【救助】
トラックにはねられて死んだ男は、所持していた免許証から保田定美(26歳)と判明。ポケットに入れていたタバコの箱にはWさんの名前、住所、電話番号を書いたメモが挟まれていたことから、男児誘拐犯であると断定された。付近の捜索から、保田は軽自動車と自転車を乗り継いで現場にやって来たらしい。なお、軽自動車も同日に兵庫県内で盗まれたものだった。
Wさん宅に押し入った男は50代くらいだったという証言もあり、保田以外の共犯者がいることも考えられるとして慎重に捜査が行われたが、Wさん宅に残った指紋が保田と一致したことから単独犯と判断。次男の行方を追うべく、3月9日から公開捜査に切り替えられる。そして同日13時過ぎ、現金受け渡し場所から3キロほど離れた地点に停められたダンプの運転席にいる次男が無事に発見された。
捜査員が「W君か?」と尋ねると、次男は「ハイ」と元気に答えた。捜査員がドアのロックの外し方を教えてやると、自分からドアを開けて出てくる。服は泥だらけで裸足になっていたが、特に外傷なども無く経過入院の必要はないと判断され、同日中に我が家へ帰った。37時間ぶりの帰宅だ。その日の夕飯は大好物のお好み焼きだったという。
家に帰る前、警察署にて両親と共に記者会見にも応じている。21世紀ではもうこのような会見が行われることなどないだろう。なんとも時代を感じさせる。記者からの質問に次男は以下のように答えている。
「眠っていたら急に起こされてビックリした。知らないおじちゃんだったから最初はこわかった」、「おじちゃんは一人だけだった」、「サンドイッチとパンとコーラを食べた」、「おじちゃんは最後はお父さんを連れてくるから待ってろと言って、そのまま出ていった」、「家に帰りたかったけど、おじちゃんが怖いから帰してとは言わなかった」、「お父さんとお母さんのことを思い出したけど、でもボクは泣かなかったよ!」
【犯人について】
保田は岡山県の出身。高校を卒業後はトラックの運転手をしていたが、1984年1月に退職。それからは当てもなくぶらぶらとするばかり。碌な収入も無いのに女遊びは止められず、サラ金で借金を重ねた。その額は約470万円。金が尽きてからは実家に戻ったが、落ちぶれた生活を終わらせるために保田が選んだのは定職に就いてやり直すのではなく、資産家の子息を身代金目的で誘拐するという最悪の選択肢だった。
岡山県の保田の家からは犯行計画書が発見されている。そこにはWさん宅で幼児を誘拐すること、中国自動車道へ呼び出し、長尾バス停で向かうように指示することなど、実際の犯行とほぼ同じ内容が書かれていた。こうした手口は同時期に発生したグリコ・森永事件を参考にしたと考えられている。報道では「グリコ・森永事件の模倣犯は相次いでいたが、これほど徹底した手口のものは初めて」と論評されている。資産家のWさん宅についてはトラック運転手の仕事をしているうちに知ったようで、計画書には住居の間取りなども詳しく書かれていたという。
3月27日、身代金目的の誘拐、住居侵入、監禁、窃盗容疑で被疑者死亡のまま書類送検。後に不起訴処分となった。
【その後】
保田をはねて殺したトラック運転手の男性(29歳)は、その場での逮捕は見送られたものの、やがて業務上過失致死容疑で書類送検された。ただし不起訴相当の意見付きで、後日「事故は保田の飛び出しが原因であって、運転手に過失はない」として正式に不起訴処分が決まっている。
また、保田の遺族は自賠責保険の支払いを請求したが、これは認められず、支払いはゼロとなった。
【出典】
朝日新聞1985年3月9日「芦屋で園児誘拐、33時間ぶり保護 5千万円要求の犯人は事故死」
朝日新聞1985年3月9日「身代金の奪取あせる?犯人即死、一度は切れた糸 芦屋の園児誘拐」
朝日新聞1985年3月9日「熟睡の一家襲った犯人 電話1人応対、母の願い通じる 芦屋の園児誘拐」
読売新聞1985年3月9日「園児誘拐、犯人は事故死 兵庫の高速道 身代金奪取の寸前 ダンプ内、無事保護」
読売新聞1985年3月9日「〇〇ちゃん、よかったね 園児誘拐、意表つく展開 目前の犯人、一瞬の死」
読売新聞1985年3月9日「荒い手口、証拠は多い ドキュメント/芦屋市幼児誘拐事件」
朝日新聞1985年3月10日「「いたぞ!」どっと歓声 2千人動員、身を結ぶ 芦屋の園児誘拐事件」
朝日新聞1985年3月10日「サラ金苦、周到な計画 園児誘拐犯人の保田定美」
朝日新聞1985年3月10日「園児誘拐犯人、21面相がヒント?1ヵ月前に現場下見か」
朝日新聞1985年3月10日「誘拐の〇〇ちゃん、無事両親の胸に」
読売新聞1985年3月10日「「ボク泣かなかったよ」〇〇君、37時間ぶり我が家へ/芦屋市幼児誘拐事件」
読売新聞1985年3月10日「「人質取る」と明記 園児誘拐 犯人保田、詳細な計画書/芦屋市幼児誘拐事件」
朝日新聞1985年3月11日「現金運搬車の走行経路、計画書とそっくり 誘拐犯保田、舞台移して指示」
読売新聞1985年3月19日「園児誘拐「保田」の事故死 どうなる?運転手の責任」
朝日新聞1985年3月28日「芦屋の園児誘拐事件、被疑者死亡で送検」
読売新聞1985年3月28日「誘拐犯はねた運転手 不起訴相当で送検へ」
読売新聞1985年5月14日「誘拐犯はねた運転手不起訴」